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2月『誤解と寛容/Misunderstanding and generosity』

逆、裏、対偶というのは、数学の証明で用いられる用語だが、会話の中で言葉の裏を読むのは、どこか証明と似たところがある。「AならばBであり、AでないならBではない」と言った形で、言外の意図を読み解く行為がそれに当たる。

「学校では良い子である」という評価に対し「学校以外では良い子ではない」という可能性に思い至るのは、一種の職業病だろうか。

何か問題が生じた際に、あらゆる可能性を探るのは当然であるが、同じ情報を与えられても、人は個々の経験や価値観に基づいて、偏った解釈をしてしまうものである。会話に際し、誤解を生まない為には、用語の意味や前提条件を共有しておく必要がある。

しかし、これが意外と難しい。何故なら、自分にとって当たり前だと思っていることを、わざわざ説明しようとは、なかなか思い至らない為である。

解決する方法は、一つある。自分が話し出す前に、相手に質問するのである。

アサーティブな対話を理想とするならば、傾聴というのは、実現過程の一つに当たると考えられる。

自己主張をする前に、相手の話を謙虚に聴く。この姿勢自体は素晴らしい。

問題は、謙虚なつもりでいて、既に個々人の価値観に基づく解釈、情報の取捨選択が行われていることに、無自覚でいることである。

世の中には、質問されても答えず、一方的に主張する人もいるから、傾聴の姿勢を示す人には、対話できる可能性があると言える。しかしながら、傾聴を、ただ聞けば良いとした場合、相手の意図を読み違える可能性がある。

前述のとおり、分からなければ質問すれば読み違いは減るのだが、分からない、或いは誤解しているという自覚をもてるかどうかは、個々人の力量に掛かっている。

アサーティブな対話に至ろうとするならば、自分が話し手になった時点で、相手が話題にしたいであろう事柄について、自分の意見を述べる前に、相手に確認をとることが必要である。会議の議題が決まっていたとしても、誰もが同様に解釈しているとは限らないし、言外のニーズが含まれている場合もある。言葉自体は同じでも、前提条件が異なっていれば、解釈は違ってくるだろう。都合の良い真実とは、事実の曲解に過ぎない。筋道立てて話しているつもりでも、相手が違う土俵に立っていたら、全く見当違いな意見ということになってしまう。

「自分はAだと言うつもりだが、言ったらどう解釈される可能性があるだろうか」と考えたなら、伝える相手によって話題の順番や言葉を選び、作戦を立てることができるだろう。傾聴とは、共感を示しながら聴くことを言い、自分の価値観と異なる意見だとしても、丁寧に受け止めることが必要だとされる。その上で対話を試みるならば、相手の価値観に則った言葉を選ぶ必要があるだろう。

全く異なる価値観の持ち主と対話するのだから、理解し合えるとは思わない。そういう考え方もあるのだなと受け止める寛容さをもち、歩み寄る為の言葉を確かめて共有を図る姿勢が、異なるもの同士の対話には欠かせない。

結論を急げば誤解止まりだが、考え方の一つだと受け止めたなら選択肢と成り得る。

伝えたいことがあるなら、相手が話を受け止められる状態かどうかを見極める。持論の展開はその後の話である。

人に何かを求めるとき、相手が大人であれ子どもであれ、まず相手に関心を寄せること。

相手の価値観を知ることが、対話と協調の第一歩である。








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Reverse, the back, the contraposition are terms used by proof of the mathematics, but, as for reading the other side of words in a conversation, there is the place that resembled somewhere proof. An act to read an implied intention in the form that I told "not to be B if it is B if it is A and is not A", and to untie hits it.

Is it a kind of occupational disease that realize possibility "not to be the child who is good any place other than the school" for an evaluation "to be a child good at school?"

When some problem occurred, it is natural to consider every possibility, but the person does partial interpretation based on individual experience and sense of values even if I am given the same information. It is necessary to share a meaning and the precondition for term not to produce misunderstanding on the occasion of a conversation.

However, this is unexpectedly difficult. This is because it does not readily realize it to explain that I think that it is natural for oneself expressly.

The method to be settled is one. I ask a partner a question before oneself begins to talk.

It is thought that the listening closely is one of the realization processes if I idealize the talks that are assertive.

I listen to the story of the partner humbly before asserting itself. This posture in itself is splendid.

There is the problem with a modest intention and is to be unconscious, and to be in interpretation based on the sense of values of the individual, choice of the information having been already made.

Because there is the person insisting one-sidedly without answering even if asked you a question in the world, it may be said that a person indicating the posture of the listening closely may talk. However, I may misread the intention of the partner when it is said that you should merely hear listening closely.

As previously described, the misreadings decrease if I ask you a question if I do not understand it, but hang over the ability of the individual whether you can have the awareness that you do not know it or misunderstand.

It is necessary for a partner to take the confirmation before speaking one's opinion about the matter that a partner will want to do in a topic when oneself became a speaker if going to lead to the talks that are assertive. Even if the agenda of the meeting was decided, anyone may not interpret it equally, and implied needs may be included. If preconditions are different even if words in itself is the same, the interpretation will be different. The convenient truth is only the perversion of the fact. If I put it up and intend to talk, and a partner stands in the sumo ring different, logic is an opinion wrong at all.

I choose a turn and the words of the topic by a telling partner if I think "oneself intends to say that it is A, but how may be interpreted if I say" and may put up a strategy. Even if I say that I listen while showing sympathy, and the listening closely is the opinion that is different from one's sense of values, it is said what I take carefully that necessary. With that in mind, it will be necessary to choose the words in conformity with the sense of values of the partner if I try talks.

I do not think that I understand and toss it at all because I talk with an owner of the different sense of values. I have generosity to take when there is such a way of thinking, and posture to check words to approach it, and to plan joint ownership is indispensable to the talks between different things.

Misunderstanding is up, but can become the choice if I hurry a conclusion if I take it if one of the ways of thinking.

I make sure of whether a partner is in condition that a story is taken if I want to tell. Development of the stock argument is the later talk.

When you demand something from a person, a partner is an adult, and at first put interest to the partner in a child.

It is talks and the first step of the cooperation to know the sense of values of the partner.

1月『対話のプロセス/Process of conversation』

「何かできることはありませんか」と言うのが、先方からの依頼だった。
奉仕活動の一環で、何かやらせて欲しいというものであり、業務に差し支えない範囲であればと言う形で、いくつかの案を挙げたところ、年度末で利用を終えるクライアント一人一人への記念品を作るということで話は落ち着いた。
「幾つ用意したら良いですか」と言うのが次の質問で、上司が答えたところ、「手が足りないので何人か人を寄こして欲しい」と言われたのが昨年のことである。
その話を受けたとき、元々は業務に差し支えないことが条件であったこともあり、上司からは「その日、もし手が空いていたら協力して欲しい」と言う形で、有志数名が協力することになった。
その年はそれで終わった。
問題は今年の依頼である。
昨年の活動が好評だったので、今年も同じようにやらせて欲しいとのことで、それ自体は良いのだが、問題は、昨年参加した有志からの僻みに似た意見である。
曰く「私たちは時間を作って参加したのに、あなたの部署は参加していないじゃないか」といったことであった。

上述の経緯を読んで頂いた方は、既にお気付きのことと思うが、依頼は先方の都合であり、こちらにとっては全くの業務外のことである。
それを分かっているから、上司は「業務に差し支えない範囲で、手が空いていたら協力して欲しい」と言ったのである。
業務を調整してまで時間を作れとは言っていない。
参加した有志の方々は、非常に協力的だと言える。
しかし、先の発言を見るに、本意ではなく、上司の言葉の裏を読んで、何が何でも協力をしなければならないと考えたのだろう。
奉仕活動の理念に照らし合わせれば、全く的外れな認識であるが、業務外の活動であるという認識をもっていたという点だけは、協力した人もしなかった人も共有していたようである。

部署同士の交流が活発であれば、もう少し違った意見になったかもしれないが、生憎部署は物理的に離れており、そもそも業務体制が異なっている。
従って「少し無理をすれば協力できる」人も居ただろうし、「協力したいけれど非常に難しい」人も居ただろうと、傍から見れば想像できることも、相手の様子が分からないまま「やった/やらない」と言った心理に陥るのは無理もない。
問題を挙げるとすれば、同じ言葉を受けていながら、受け止め方が違い、それを原因として軋轢を生む発想をもたせる土壌が、組織内にあるということである。
同じ依頼を受けた2年目にして、このような事態が起こった原因を考えると、1年目の依頼が終わった時点で、請け負った人たちがどのような心証を抱いたのか確認しておくべきだったと考えられる。
更に言えば、昨年に限っては業務外のことであり、有志に頼って凌いだ依頼であるが、恒例化するのであれば、いっそのこと業務の一環と位置付けて、正式に人と時間を確保するべきだろう。
或いは、業務外のことであり、正式に受けるのが難しいのであれば、きちんとお断りするのが、窓口としての上司の役割であり、その点を曖昧にしたことは、落ち度であると考えられる。
今回は、参加した有志が、参加しなかった他の部署の職員に対して、一年越しで暴言を吐いたわけだが、こう考えると、責めるべき相手が間違っている。
そもそも昨年の依頼を聞いた時点で、本当にそれを受けてよいのか、上司に進言するべきではなかったか(事実、依頼の話があった時点で、各部署に対して問い合わせがあり、上述の案を挙げる時点で意見を言う機会はあった。業務外の協力の可能性というリスクも伝えられた)。
それをせず「私は(上司の言葉の裏を読んで)無理をして協力したのに、何故あなた方はそれをしないのか」などと、実際にはやらなくても良い調整を自らした上で、それをせず協力しなかったと僻むのはお門違いも甚だしい。
伝えるべき相手に意見を述べず、そうでない相手に暴言を吐くのは、八つ当たり以外の何物でもないだろう。
これを受けた会議の結論は「人手が足りないので日程を調整して協力できるよう依頼する」と言う、何とも日本人らしい形にまとまったが、恐らく結果は変わらないだろう。
最初の約束が「業務に支障を来さない範囲」と決められているので、これ以上踏み込むのは難しい。
現場の軋轢からの苦渋の判断だろうが、言外の意を無理やり汲んで働く(働かせる)思想がある限り、今後も繰り返されると考えられる。
「そんなことは言っていない。部下が勝手にやっただけだ」と言うのは、察しの文化の負の側面の一つである。

十則として明文化していた企業は罰を受けたが、勝手に察して過労死すれば、それは自己責任だと言い逃れられても仕方がない。
そう言ったリスクに気付かず、まるで機嫌伺いのように言外の意を読み取って働き、それが意に沿わないときには、上司ではなく同僚を責める姿勢は、どのように生まれて来るのだろう。
責任の所在を明らかにするのは、職員を守るうえで必須事項であり、業務上必要とされる事項は、内容と期日が明文化されるのが常である。
明文化されていても、解釈の度合いによって認識にずれが生じるのだから、口頭の指示など信用できたものではない。
従って、明確な文書に基づき、解釈に幅があれば確認し、すり合わせするのが基本である。
しかし、今回は部署によって温度差があったから、恐らく上司から受け取った内容を伝達する時点で、それぞれの部署のチーフが、異なった解釈をしたのであろう。
「調整する必要は無い」を前提とするか「できる限り協力する」を前提とするかで、解釈は全く異なる。
近年、職員を守るということが、漸く注目され始めてきた。
時間外勤務が常態化し、離職や突然死が珍しくなかったことを考えると、大きな変化である。
以前なら「調整してでも協力するように」と、勤務時間に関係なく言われていただろうと思うと、非常に感慨深いものがある。
例えば今回の依頼内容が、業務に合致しているとか、奉仕活動の理念に共感したとか感じられて、頼まれても居ないのに協力する姿勢になるのだとしたら、先の暴言は生まれなかったことだろう。
「調整しなくても良いって言っているけれど、本心としては協力して欲しいんだと思うよ」と、言葉の裏を読んだチーフが現場に伝えたときに、納得して協力した場合も、暴言は生まれなかったと考えられる。

どういう場合に暴言が生まれるか。
それは納得していないときである。

「調整しなくて『も』ってことは、調整しろってことでしょう」などと、穿った解釈をする人はいるものである。
行動自体は協力的でも、本心は全く別の方向を向いていることになる。

自分の意に沿わない行動を取るとき、どのような感情を抱くか考えれば、暴言が生まれる理由には簡単に行き着く。
要するに、納得した上での協力では無かったのである。
「自分は渋々協力したのに、しなかった人がいる。狡い」と言ったところだろう。

納得していないのならば、そのように進言し、意見の交流を図るのが、健全な組織を保つ秘訣なのだが、そのような土壌はもっていなかったようである。
但し、納得を得られない案件を下した時点で、上司の失策、見通しの甘さだと言わざるを得ない。
昨年の時点では、突発的な案件だったとしても、今回は、現場の意見を踏まえた上での2回目である。
当然、人手が必要になることも予想できており、だから「その日に手の空いている職員は」と今年も声を掛けた訳だが、業務の調整をしなければ人を集められないとは予想しなかったのだろうか。
或いは、業務の負担を減らすように通達している立場上そうは言うけれど、現場判断で調整してくれるだろうと考えていたのだとすれば、先に述べた「言外の意を汲ませ、自己責任で働かせる」という思想を未だもっているか、単にそこまで頭が回らず「昨年に倣って声を掛けた」「軋轢が生まれたから折衷案を出した」といった、行き当たりばったりな姿勢で働いていたのだろう。
柔軟と言えば聞こえは良いが、単なる認識不足によるものだろう。
現在の地位に至るまで、旧来の組織とその思想に染まり過ぎたのが原因である。

一方で、穿った見方をした人が居るのは良いが、何故進言に結び付かないのだろうか。
昨今の上下関係を鑑みれば、部下の意見を聞くのは上司の責務の一つですらある。
従って、納得がいかないのであれば、相談するなり意見を述べるなりすることは出来る筈である。
何故それをせず、暴言として同僚を責めるのか。
意見を述べても仕方が無いと考えているのか、或いは、下手に意見して睨まれるのが嫌と言う保身から意見を控え、一見従うようにして、立場の近い者に当たっているのか、判断に迷うところである。
いずれにせよ、暴言は心情に対して健康的ではないし、意見を組み立てられないなら、全く生産的ではないので、本人にとってメリットはないだろう。
暴言を放って気分が晴れるということはあるかも知れないが、原因が解決されていないので、今後も同じように凌いでいくのだろうか。
成長を止めた人間の生き方としては見事なものである。
不満は期待の裏返しであり、穿った見方が出来るということは、問題に気付く力をもっているということである。

それを生かすことなく捌け口に暴言を捨てるのだから、後継者としては期待できるだけに、残念な思想の持ち主と言えるだろう。
何故保身に走るのか。
そうせざるを得ない土壌があるのだろう。
ある種の諦観であり、組織を消耗させる主な原因の一つである。

不満を抱え込むタイプの人間は、対話が苦手である。
対等に話すという経験が、余りにも不足しているのが原因である。
対等に話すためには、対等に話すことのできる相手が必要である。
立場が近くて共感できる相手でも良いし、様々な思想に対して寛容な相手でも良い。
そうした出会いによって、対話する姿勢が涵養される。

逆に、一方的な関係では、圧倒的な増長か、非常な卑屈さを涵養することになる。
察しの文化の日本人の場合、察しが悪いと評価を落とすのが常である。
また悪いことに、察しの文化は卑屈さとの相性が非常に良い。
こびへつらうことを処世術としている人を時折見受けるが、「こうすれば相手の意に沿う」という行動を、卑屈な感情と共に体現しているだけである。
そこにあるのは対等な関係ではない。
こうした土壌の中に育つと、対話する姿勢の涵養は難しい。

今回の一方的な依頼も、窓口に於ける対話が実現していたら、このような事態にはならなかっただろう。
「奉仕活動をしたい」と言うのは相手の都合である。
だから「業務に支障を来さない範囲なら」と上司は受けた訳である。
相手の都合に一方的に合わせるのは対等ではない。
だから「人手が欲しい」と言われたときに「業務に支障を来さない範囲ならば」と受けた上司は正しい。
そして捻出された人員が多かろうが少なかろうが、約束は果たされた訳であるから、後は相手の責任である。

「奉仕活動をしたい」と言って於いて「人手が足りない」と言うのは、相手の都合である。
百歩譲って「こちらのクライエントの為のものを作ってもらうことになったから協力しよう」と、上司が納得したのならば、業務の一環に加えるべきだったのだ。「急に言われても困る」と、反対意見は出るだろう。
しかし長い目で見て、組織として今後も協力体制を築くつもりがあったのなら、それらを飲み込んだ上で頭を下げるのが、責任者の仕事である。
「急なことなので無理は言えないと分かっている。それでも調整して欲しい」ということであれば、責任の所在がはっきりし、現場も安心して調整できただろう(クライアントとの日程調整は、気軽にできるものではない。トラブルに発展することもあるため、慎重さが求められる)。

上司からは言外に変更を求められ、変更した責任は自分で負うという状況だったから、現場の反応が分かれたのだろう。

目の前の業務で手一杯の現場職員に、遥か未来を眺めさせることは難しい。
それは、上に立つ者の責務である。

別組織との対話、上司と部下との対話。
これらが当たり前に行われていたならば、今回のような曖昧な合意(とは呼べないかも知れない折衷案)を得ることにはならなかっただろう。

必要があって曖昧にするのは良い。
現場の軋轢を受け、どちらも立てようとした折衷案は、当然曖昧なものになる。

では、受けた依頼への対応はどうだったか。
責任の所在を曖昧にした結果が、軋轢を生んだのではなかったか。

約束と齟齬が生じた時点で、打つべき手は何だったのか。

私はこう考える。
察しの文化に頼らず、反対が予想されたとしても、責任の所在と方針とを明確にするべきだったと。

第一条件が通常業務の優先であり、その上で手が空くならと言われたら、責任感が強い程、通常業務を優先するに決まっている。
先に述べた、保身の理屈も、方針が明確であれば、はっきりとした態度が示されたことだろう。
明確な方針は、責任の所在も明確に示す為、安心して協力できたと考えられる。

詰まるところ、「業務に支障を来さないこと」という明確な方針を守ったか、「出来る限り協力を」という曖昧な方針から言外の方針を勝手に読み取ったかによって、部署による判断の違いが生じた事案である。
言うまでもないことだが、どちらの判断も、上司の示した方針を守るという点で一致している。

言外の方針を守る法的根拠は、残念ながら存在しない。
口頭指示なら尚更である。
根拠をもたない行動は、実行した本人に責任が求められるのだ。

「いった/いわない」「やった/やらない」と言う口論は、著しく根拠に欠け、心情だけが溝を深め、生産性を伴わない。
現場の大多数の人間が安心して働く為には、察する文化に頼るのではなく、明確な方針が必要なのである。

明確さは対話の根拠となり、生産的に積み重ねられる。








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It was a request from the other party to say whether "there cannot be something that I could do it".
After being thing to want to do it, and raising some plans in form to say that there was it as far as I did not interfere with duties at a part of the homage, the story calmed down that I made a souvenir to client each one who finished the use with an end of the fiscal year.
It is last year that it was said, "I want you to go over 寄 in some people because you lack a hand" when it is the next question to tell whether "I should prepare several", and the boss answers it.
When they received the story, originally it has been a condition not to interfere with duties, and several volunteers will cooperate in form to tell "to want you to cooperate on that day if available" from the boss.
The age terminated in it.
A problem is a request of this year.
Because activity of the last year was popular, I seem to want to do it in the same way this year and am good itself, but the problem is the opinion that I resembled to be jaundiced from the volunteer who participated last year.
A reason was, "your post did not participate though we made time and participated".

The person who had you read above-mentioned process already thinks it to be an aware thing, but there is the request on account of the other party and is the real duties outside for this.
Because I understood it, I said, the boss "wanted you to cooperate if available as far as you did not interfere with duties".
I do not say that I make time coordinating duties.
It may be said that the volunteers who participated are very cooperative.
However, not the real intention, I read the other side of the words of the boss if I watched a former remark and would think that you must cooperate whatever it takes.
It was totally irrelevant recognition, but only the point that had recognition to be activity out of the duties seemed to share the person whom the person who cooperated did not do if I compared it with an idea of the homage.

If the interchange between posts was active, was a little more different; might be given advice, but, unfortunately, leave the post physically, and in the first place the duties system is different.
Therefore, there would be the person who "can cooperate slightly at a stretch", and "it is very difficult though want to cooperate"; when the person would be, it is no wonder that fall into "/ which did or the psychology that said, there is not it" without what can imagine seeing from the side knowing the state of the partner.
The soil which lets have an idea to receive it while receiving the same words if give a problem, and to be different in how to stop, and to lay friction as a cause in it in the organization is.
It is thought that you should have confirmed it what kind of conviction people who undertook it held when a request in the first year was over when I do it in the second year in response to the same request and think about the cause that such a situation happened.
Furthermore, it is the duties outside only in last year and is the request that you depend on a volunteer and exceeded, but I place it with the part of duties rather if I make it common usage and should find time with a person formally if you say.
Or it is the role of the boss as the window that decline properly, and it is thought that it is a fault to have made the point vague if it is the duties outside, and it is difficult to receive it formally.
The volunteer who participated this time made an absurd remark by one seeing the old year out for the staff of other posts which did not participate, but the partner whom you should blame is wrong when I think in this way.
In the first place I really received it and should not have advised the boss when you heard a request of the last year whether it was good (in fact, there was an inquiry for each post when the request found each other easy to talk to, and there was it at an opportunity to give an opinion when I gave an above-mentioned plan.) or ) which was introduced into the risk called the possibility of the cooperation out of the duties.
As for being jaundiced when I did not cooperate without doing it, the catching the wrong sow by the ear is serious after having done the adjustment that you do not need to really do by oneself "why you do not do it without doing it though I overdo it (you read the other side of the words of the boss) and cooperated".
It will not be anything else except eight hits to make an absurd remark to the partner who is not so without describing the partner who should tell an opinion.
I was gathered up in the form that seem to be a Japanese at all to say, the conclusion of the meeting that received this "depends to cooperate by adjusting a schedule because hands are not enough", but probably the result will not change.
Because the first promise is selected as "the range that does not affect duties", it is difficult to step further.
It is thought that it is repeated in future as far as there is thought to consider implied will by force, and to work (I let you work) even if it is a judgment of the distress from on-site friction.
"Such a thing does not say". It is negative lateral one of the culture of the guess that say, a subordinate only did it without permission.

The company which stipulated it as 十則 received a punishment, but there is no help for it if I sympathize without permission and do karoshi even if evaded when it is a self-responsibility.
When I read implied will like mood inquiry and work, and it does not go along the will at all without noticing such a risk, the posture to blame a co-worker not the boss will be born how.
It is a required matter to clarify who is responsible in protecting the staff, and it is usual that contents and a date are stipulated as for the on-the-job required matter.
Because a gap occurs in the recognition because of the degree of the interpretation even if stipulated, it is not the thing which I was able to trust including oral instructions.
Therefore, if interpretation varies, based on a clear document, I confirm it, and what I rub it together and do is basic.
However, it will be to have interpreted that the chief of each post was different because there was difference of temperature this time by a post when probably I transmit the contents which I received from the boss.
The interpretation is at all different from the を premise that "does not have to adjust it" and を premise to do it, or "to cooperate as much as possible" whether you do it.
In late years it has begun to finally attract attention to protect the staff.
When overtime becomes common and thinks that quitting a job and sudden death were not rare, it is a big change.
There is a very deeply impressive thing when I think that I would be said regardless of working hours when "I adjust it and cooperate" before.
For example, it will be that the former violent language was not born if it is felt that this request contents are equal to duties or sympathized with an idea of the homage, and it is in posture to cooperate though I am not even if asked.
When I understand and cooperate when the chief who read the other side of words told the spot when "I think that I want you to cooperate as the real intention though I say that you do not need to adjust it", it is thought that the violent language was not born.

What kind of case is violent language born in?
When I do not understand it.

When "I do not adjust it, and "mo" coordinates the thing, it will be a thing", and there is the person doing witty interpretation.
Even if action in itself is cooperative, the real intention will turn to totally another direction.

If I hold what kind of feelings or think when I take the action not to comply with one's will, I easily arrive at the reason why violent language is born.
In brief, there was not it by the cooperation on having understood.
Though "I cooperated unwillingly, oneself has the person whom I did not work" as. It will be the place where I said, I am dirty.

It was the secret to keep a healthy organization that I made a proposal like that if I did not understand, and planned the interchange of the opinion, but did not seem to have such soil.
But I cannot but say that it is a mistake, the over-optimism with possibility of boss when I gave the item which assent is not got from.
Even if it was a sudden item as of the last year, it is the second on having been based on an on-site opinion this time.
Naturally I could expect that hands were necessary, and therefore "the staff that the hand was vacant on the day" was the reason why you called out to in と this year, but would you not expect it that people were not gathered if I did not adjust duties?
Or I yet had thought "to let I let you draw implied will and work by a self-responsibility" that I spoke earlier if I thought that I would adjust it by spot judgment though I said so in the viewpoint that I notified it about to reduce the burden of duties or would work with the haphazard posture "that started a compromise because friction was born" that "I called out to after the fashion of last year" without a head merely turning around to there.
Speaking of flexibility, the hearing is good, but will be a thing by the lack of simple recognition.
Up to a current position, it is caused by the fact that I was stained with an old organization and the thought too much.

On the other hand, it is good that there is the person who looked from a witty viewpoint, but why are you not tied to advice?
If it takes example by the top and bottom relations of these days, it is one of the duties of the boss to hear the opinion of the subordinate.
Therefore, I should be able to do it if I do not understand as soon as I give an opinion as soon as I talk.
Why do you blame a co-worker as violent language without doing it?
It is a place hesitating about a judgment whether you think that there is no help for it even if you give an opinion or whether you hit the person that the situation is near as if seemingly following it with an opinion near at hand from the self-protection that what I give advice badly, and is glared at says to that unpleasant.
In the meantime, there will not be the merit for the person because the violent language is not healthy for feelings and is not productive at all if an opinion is not assembled.
I hit violent language, and a feeling may clear, but will you exceed it in the same way in future because a cause is not solved?
It is wonderful for the way of life of the human being who stopped growth.
The dissatisfaction is flip of the expectation, and it is that it has power to notice a problem to have a witty viewpoint.

As I can expect it for a successor because I abandon violent language in an outlet without making use of it, it may be said that it is an owner of the thought that I am sorry.
Why do you run about for self-protection?
There will be the soil which I cannot but hold so.
It is certain resignation and is one of the main causes to let you consume an organization.

A human being of the types to take on dissatisfaction is weak in talks.
It is caused by the fact that experience talking about equally is short in a rest.
The partner who can talk equally is necessary to talk equally.
A situation is near, and the partner whom I can sympathize with is enough and is enough for even the tolerant partner for various thought.
Posture to talk by such a meeting point is cultivated.

On the contrary, by the one-sided relations, I will cultivate overwhelming growing impudent or great servileness.
In the case of the person, it is usual that I lose an evaluation if insensitive on the Culture Day of the guess.
In addition, to make matters worse, the culture of the guess has very good affinity with the servileness.
I occasionally suppose in people assuming that I flatter you how to get along in life, but only embody with the feelings that are servile by an action, "it goes along the will of the partner if I do it this way".
It is not equal relations that there is there.
The cultivation of the posture to talk is difficult when brought up in such soil.

When the talks in the window were realized, this one-sided request would not become such a situation.
There is that I say, "I want to do homage" on account of the partner.
Therefore it is the reason why the boss received "the range that does not affect duties".
It is not equality that match with the circumstances of the partner one-sidedly.
Therefore the boss who received it when it was said, "I want hands" when "it is the range that does not affect duties" is right.
And it is the responsibility of the partner afterward because the promise is reason carried out even if there is few it even if there is much staff worked out.

There is that I say, "I want to do homage", and there is 於 and says, "hands are insufficient" on account of the partner.
If the boss understood when I handed it over of 100 steps and "would cooperate because I would have you make the thing for this client", you should have added it to the part of duties. The dissenting opinion will appear when "troubled even if said suddenly".
However, it is the work of the person in charge that lower the head if I take a long view and intended to build the cooperation system in future as an organization after having swallowed them.
"I understand that the unreasonableness cannot say because it is a sudden thing". Still if I wanted you to adjust it, who is responsible became clear and might adjust the spot in peace (the schedule adjustment with the client is not a thing made willingly.) ) that carefulness is found to have possibilities to develop into a trouble.

A change was demanded from implied meaning from the boss, and an on-site reaction would be divided because the responsibility that I changed was the situation that I bore by oneself.

It is difficult to let the spot staff busy with duties at hand look at the far-off future.
It is a duty of a person standing on the top.

The talks with the talks with the other organization, the boss and the subordinate.
If these were performed commonly, it would not mean that I obtained a vague agreement (the compromise which I may not call) like this time.

It is good that it is necessary and makes it vague.
I receive on-site friction, and naturally the compromise which I was going to put up both becomes vague.

Then how was the correspondence to the request that I received?
Did the result that made who is responsible vague not produce friction?

What was the hand which should beat when a promise and disagreement occurred?

I think in this way.
When even if objection was expected without depending on the culture of the guess, you should have made who is responsible and a policy clear.

If the most important condition is usually the priority of duties, and it is said that, with that in mind, a hand becomes vacant, I must usually give priority to duties so as to have a strong sense of responsibility.
If a policy is clear, reason of the self-protection that I spoke earlier will be that a clear manner was shown.
As for the clear policy, it is thought that I was able to cooperate in peace to show who is responsible definitely.

In other words, it is the case that the difference of the judgment by the post produced whether I protected a clear policy "not to affect duties", or you read an implied policy from a vague policy by "cooperation without permission as much as possible".
Needless to say, I agree at a point to protect the policy that the boss showed both judgments.

Unfortunately the legal grounds to protect an implied policy do not exist.
Oral instructions all the more.
As for the action not to have grounds toward, responsibility is demanded from the person who carried it out.

"/ which I did or the quarrel to say, there is not it" "not to say / which went" is remarkable, and lack in grounds, and only feelings deepen in a ditch and are not accompanied by productivity.
The policy that is clear not depending on culture to understand so that on-site majority of human beings work in peace is necessary.

The clarity becomes the grounds of talks and is repeated productively.

12月『自尊心の基盤/Base of the pride』

駅前など、無料駐輪場での盗難は、既に日常の域にある。
彼らの目的は、移動手段の確保が主だとは思うが、高級車両の転売による、現金確保が目的かも知れない。

何れにせよ、持ち主にとっては迷惑な話である。
一体、どのような人物が、こうした犯罪を行っているのだろうか。

警察官に相談すると「防犯意識が低い」と、持ち主が責められることが多いことから、犯罪を行う人間が一定数存在し、まるで自然災害のように扱われていることが分かる。
いくら取り締まりを強化しても、自転車の盗難を止めることができない。
しかし台風を止めることはできないが、雨戸を閉めることはできる、と言ったところだろうか。

筆者も若い頃、無料駐車場で被害に遭ってから、有料駐車場に切り替えたことがあった。
学生の身からすると、毎月の数千円は小さな額ではないが、盗難の心配がなく、雨風さえしのげたので、必要経費だったのかも知れない。
管理人の老夫婦とも仲良くなれたので、社会勉強としては、良い買い物だったと今は思っている。

話は変わって、アパートなどの駐輪場では、自転車への悪戯が問題になっている。
タイヤの空気を抜く、移動させる、別の鍵をかける、壊す、と言ったもので、住民間にトラブルがあれば話は別だが、不特定多数の被害者がある為、何らかの不満のはけ口として、こうした行為に出ているのだと考えられる。

警察官の対応は、上記と似たようなものなので、悪戯への対策としては、持ち主が室内に入れてしまうのが一番良い。

とは言え、2階以上に運ぶのは大変なので、定期的に見まわるか、大家さんに注意してもらうくらいしか方法はないが、注目したいのはそこではない。

今回気になっているのは、交通手段でも、金銭目的でもなく、犯罪に近い嫌がらせに至る、その心理と人物像である。

騒音のことで、階下の住人が訪ねてきたことがあった。

互いに初対面だったが、人となりが分かると話は進むもので、無事に誤解を解いた貴重な経験であった。
対話すべき相手を特定できれば、少なくとも話はできる。逆に特定できなければ、不安や不満を募らせるのが、人の性である。

騒音は、隣家が原因と特定されたので、無事に解決した。自転車の方は、そうはいかない。
通りに面した駐輪場で、わざわざ人目を避けて悪戯するのは、何故だろう。

人物像を想像するに、まず、経済的に豊かでないことが予想される。

人間は「自分がしたように、他人もするものだ」と考える一面がある。
これに基付けば、その人物が自転車を所有しているとは考えにくい。
自分が悪戯をしている以上、悪戯を受ける可能性を考えるからだ。
悪戯を受けるリスクを負っていないので、他人の自転車に悪戯できるのである。
自分の自転車だけは、安全に管理しているのではないかと言う考えもできるが、経済的に豊かであるならば、自転車の損壊などの理由で、社会的地位を脅かすような選択をするとは考えにくい。
就労しているかも知れないが、経済的に豊かではないのだろう。
バス料金を他人にたかった施設就労者と話をしたときに感じたことだが、何か深い考えがあるわけではなく、目先の不満の解消を、考えなしに解消しようとして、社会人にあるまじき行動に出ていたようである。
そこにあるのは、他人からどう見られるかではなく、自分が心地好いかどうかという、幼い自己認識だけである。
幼稚だと言っても良いだろう。

リスクを負わないからできる、と先に書いた。
彼らの立場に立って、より正確に表現するならば、彼らにとってのリスクとは、彼らの主観による不満だけである。
不満の解消だけが行動の目的なので、社会規範的なリスクは始めから視野に入っていない。
「見つかったらヤバい」くらいのものだろう。
それも「叱られるのが嫌」というレベルの話である。
持ち主が居てどのくらい困るのかなどの想像は、彼らの理解の外にあるのだ。

警察官が自然災害として扱いたくなるのも分かる。
ここまで認識にずれがあると、もはや対話は難しい。
理解力や知識量と言った問題ではなく、持って生まれた気質、育った地域の環境などが積み重なって形成された価値観そのものの次元が、既に違うのだ。
価値観の修正には、形成に掛かったのと同程度の時間を要すると言う。
今自転車に悪戯をする彼らが何年かけてその価値観で暮らすに至ったかは分からないが、悪戯を止めることができたとしても、一時的なものに終わるだろう。
3歳児を殴り殺した青年は、心の成長が3歳時で止まっていたのかも知れない。
様々な理由で彼らが止めた時計を動かすのは、至難の業である。
止まった時計を一斉に廃棄した総統が過去に居るが、その気持ちは少し分かる。
そうしない為の一つの提案として、自転車を買い与えてはどうだろうか?
公共の取り組みとして「シティサイクル」という貸出システムがある。
ローマ帝国は、パンとサーカスによって福祉を支え、そして滅んだので、ノーリスクで貸し出すのはどうかと思うが、理解し難い同士が共に生きるには、歩み寄るしかない。
自然災害として戦々恐々と過ごすよりは、幾分健康的だろう。

それはそれとして、一体何が不満なのだろうか。

貧困だろうか。
自分の置かれた境遇への不満は、どうしても生じるものである。

自身の招いたものならば、ある程度は仕方ないが、世の中には理不尽な理由による解雇もあるので一概には言えない。
建設が終わった現場に、工事の仕事はもう無いのだ。
仕事を続けるためには、建設を続けさせなければならない。
ノルマの厳しい会社の場合、新規顧客を取り続けることで、終わらない工事という幻想を実在化させているのだろう。
富を平等に分け与えることはできないから、ノルマの達成を基準として差別化を図っているのだ。

問題は、競争に加われない層の存在である。

時代に取り残されただけで、そのまま生命の危機に瀕するとしたら、それは生物界の競争の話である。
人類は穀物の安定生産によって、良くも悪くも、食物連鎖の輪から外れた。
それが人類独自の食物連鎖を作っているのだから不思議なものである。

カースト制度下に於いて、身分は絶対だった。
現代社会はある意味、雇用形態による身分制度下にある。

派遣社員の身分が問題になったが、更に下のヒエラルキーが存在することを忘れてはいけない。

どうあがいても生活水準が上がらない、或いは方法を知らない、知っていても能力が及ばない。
理由は様々だろう。

周りを見れば、自分より若い人間が、自分より良い暮らしをしているように見える。
そんな中で生まれるのは、どのような心情だろうか。

恐らくその辺りに、彼らが自転車をひっそりと壊す心理が隠れているのだ。

日の当たる場所を堂々と歩けない惨めさと共に、ひっそりと暮らしているのかも知れない。

彼らに必要なのは同情ではなく、増して災害対策でもなく、社会保障制度と雇用形態の見直しである。

もっと言えば徴税の在り方そのものを見直す必要があるだろう。

私は共産主義者ではないが、身分制度のある社会で、資本主義に基づく競争が公平に行われるだろうか。

アジア圏だけを見ても、競争が終わる気配はない。

競争の中にありながら、敗れても身の置き場に困らない構造をこの国はかつて持っていた。
貧困が視野狭窄を招くなら、豊かさをもう一度見直すべきだろう。








*  *  *  *  *









An everyday level already includes the theft in the free bicycle parking lot including the station square.
Their purpose thinks that the securing of means of transportation is important, but securing of cash by the resale of the high-quality vehicle may be a purpose.

In any case it is an annoying talk for the owner.
On earth what kind of person will perform such a crime?

Because an owner is often pressed "to have a low security consciousness" when I talk with a police officer, the number of the uniformity exists, and a human being performing a crime understands that it is treated like natural disaster at all.
I cannot stop the theft of the bicycle even if I strengthen the control no matter how much.
However, I cannot stop a typhoon, but is it the place where I said that I can close a sliding door?

I have changed the writer to the toll parking lot in one's youth after I encountered damage at a free parking lot.
Judging from the body of the student, monthly several thousand yen was not a small sum, but might be cost because we did not have to worry about the theft and were able to get over even wind and rain.
Because I was able to make friends with the old couple of the manager, for social study, I think that it was good shopping now.

The story changes, and, in the bicycle parking lots such as apartments, the mischief to a bicycle becomes the problem.
If there is a trouble between inhabitants with the different thing which said that I break it to lock to move letting the air of the tire, the story is different, but it is thought that I appear for such an act as an outlet of some kind of dissatisfaction because there is the unspecified number of victim.

Because I virtually resembled the above, as for the correspondence of the police officer, what an owner is in a room and puts is good for measures to mischief most.

However, I have an owner warn him, and there is the method whether it patrols it regularly to carry than the second floor because it is serious, but it is not there that want to pay attention.

It is the psychology and person image which it is not a money purpose in transportation to be interested this time either, and reach the harassment that is near to a crime.

About the noise, a downstairs resident has visited.

It was the first meeting each other, but the talk was the valuable experience that untied misunderstanding with the thing which advanced safely when I understood personality.
I can have at least talk if I can identify the partner who should talk. On the contrary, it is human nature to increase uneasiness and dissatisfaction if I cannot identify it.

Because a next door was identified with a cause, the noise was settled safely. The bicycle does not go so.
It will be why I avoid the public eye expressly in a bicycle parking lot facing the street, and to go into mischief.

At first the thing that is not rich is expected economically if I imagine a person image.

There is one side to think, the human being "works as another person as oneself did it".
If this gets the basis, it is hard to think that the person owns a bicycle.
Since oneself goes into mischief, this is because it thinks about possibility to receive mischief.
Because I do not bear a risk to receive mischief, I can play with a bicycle of another person.
There is the thought to tell to have possibilities to manage only one's bicycle safely, but is hard to think if rich economically to do choice threatening social status for reasons of the destruction of the bicycle.
I may set to work, but will not be rich economically.
It was to have felt a bus fare when I talked with the facilities working person who extorted another person, but seemed to appear for the action unworthy of a member of society to be what, or not to have a deep plan, and to cancel cancellation of the at hand dissatisfaction without a thought.
There is not it how what have it there is seen from another person, and oneself is only young self-knowledge whether is comfortable.
It may be said that it is childish.

I wrote that I could do it because I did not bear a risk earlier.
If I stand in their situation and express it more exactly, the risk for them is only dissatisfaction by their subjectivity.
Because only cancellation of the dissatisfaction is the purpose of the action, the field of vision does not contain the social norm-like risk from the beginning.
It will be the thing which "is dangerous if found".
It is a story of the levels "to hate being scolded".
There is the imagination how long it is awkward for that there is an owner outside their understanding.

I understand what a police officer wants to treat as natural disaster.
When recognition includes a gap to here, the talks are already difficult.
A dimension of the sense of values itself that inborn temperament, the local environment that grew up pile up and were formed is already different from quantity of understanding and knowledge not the problem that I said.
I say that I need time at the same level as what the formation took for a correction of the sense of values.
I do not know it how many years they who play with a bicycle came to just live on the sense of values for, but will be over to a temporary thing even if I was able to stop mischief.
As for the young man who beat a 3 years old child to death, the growth of the heart might stop in 3 seasons and years.
It is a task of extreme difficult that move the clock which they turned off for various reasons.
There is the President who discarded the clock which stopped all at once in the past, but some feelings know it.
When I buy a bicycle as one suggestion not to do so it, how about?
A public action includes the rental system called "the city cycle".
Because the Roman Empire supports the welfare by bread and a circus and I died out, I do not think what I loan out with a no risk is a good idea, but cannot but approach it so that the fellow whom it is hard to understand lives together.
It will be somewhat healthy than it is terribly afraid and spends it as natural disaster.

Apart from that, on earth what are you dissatisfied with?

Is it poor?
The dissatisfaction to one's put circumstances occurs by all means.

If own caused it, there is no help for it to some extent, but it cannot be said unconditionally because there is the discharge by an unreasonable reason in the world.
The spot where construction ended in does not have anymore the work of the construction.
You must let you build it to continue working.
In the case of the severe company of the quota, I will let a fantasy called the construction not to be over by continuing taking a new customer become the existence.
Because I cannot share wealth equally, I plan differentiation on the basis of the achievement of the quota.

The problem is existence of the layers that competition cannot increase.

If it was only left behind in the times and is just on the verge of the life, it is a story of the competition of the world of creatures.
One way or the other, the human came off from the ring of the food chain by the stable production of cereals.
Because it makes human's original food chain, it is mysterious.

Under caste, the social position was an absolute.
In a sense the modern society is under the class system by the employment form.

The social position of the temporary employee became the problem, but must less forget that lower hierarchy exists.

Even if struggle how, the standard of living does not rise or do not know the method; even if know it, ability is inferior.
The reason will vary.

The human being who is younger than oneself seems to live life that is better than oneself if I watch a rotation.
Meanwhile, what kind of feelings is it to be born?

Probably the psychology that they change a bicycle into quietly is covered in the neighborhood.

With misery not to be able to walk the place where the day is magnificently, I may live quietly.

One necessary for them increases not sympathy and is not anti-disaster measures and is a social security system and the review that are in the employment form.

It will be necessary to review way itself of the tax collection if I say more.

I am not a communist, but, in society with the class system, will competition based on the capitalism be carried out fairly?

There is no sign that competition is over even if I look at only the Asian area.

While there was it in competition, this country had structure not to be troubled with the place for body even if I lost once.
If poverty results in a field of vision stenosis, you should review the richness once again.

11月『謙虚と頑迷/Modest and Obstinate』

新しい技術が取り入れられたとき、あなたは直ぐに順応できただろうか?

タイプライターの発明は文書の作成を容易にし、その延長線上に、ワードプロセッサーを誕生させた。
開発当初は、紙の消費量を削減すると思われていたが、実際には作成の容易さから、消費量を増大させた。
パーソナルコンピュータの出現は、文書の作成に加え、表計算というものを人々の身近なものへと変化させた。

次に訪れたのは、インターネットという情報通信網の時代である。
必要と思う情報は、調べさえすれば手に入る時代となり、興味の有無により、情報格差を拡大させて現在に至っている。

しかし、技術の進歩は留まるところを知らない。

キーボード入力が当たり前ではなくなり、フリック操作から音声入力へと、機器の進歩は操作性を向上させ、それに伴い、扱う側の人間は、求められる操作技術がかなり低下した。

現場では、まだまだキーボード操作が主流であり、テクノハラスメントなどと言う言葉が生まれるほど、旧来の機器の操作に通じることが求められているものの、スマートフォンを始め、市場に流通する機器が、高度な操作を必要としない以上、現場の機器を一新する時期が、すぐそこまで来ているのかも知れない。

(クリエイティブな活用を想定しない人間にとって、パーソナルコンピュータなどの機器は、単なる情報端末でさえあれば良く、それ以上の機能を必要としないので、操作技術の習得には繋がらない。「何でも出来る夢の箱」ではなく「生活を支える便利な板」と言ったところだろう。)

ところで、四十にして惑わず、と言う言葉がある。

四十歳になって、道理も明らかになり自分の生き方に迷いがなくなったという意味の言葉で、元々は、孔子が人生を振り返った言葉の一節である。学問の基礎が出来上がり、迷うことなくその道を進めるようになったと言ったところだろう。

四十歳と言えば、企業では中堅かそれ以上だろうか。

若さで邁進する時期を終えて、責任を求められる立場にあるかも知れない。

昨今は、正規職員としての就業が難しいので、必ずしもそうだとは言えないが、平均年齢を考えると、自分の人生に対して、何らかの哲学をもっていて良い時期には違いがないだろう。「私はこのやり方で生きていく」と決めるのは、一つの哲学だと言えるかもしれない。

さて、先の一節には「五十にして天命を知る、六十にして耳従う」と続く。

企業人として、或いは社会の一員として、自分に何が求められているのかを知ることは、正に天命を知ることだと言えるだろう。

では、耳従うとはどう言うことだろうか。

「人の言葉に素直に耳を傾けることができるようなる」と言うのがその意味だが、これを裏から読み解くならば、迷わずと言うのは、四十歳の頃は「周りが何と言おうとも、自分の考えを揺るがすことが無かった」のかも知れない。志を貫くことは、人の世では難しいことであり、成し遂げたのは、流石孔子と言ったところである。また、彼の哲学が後の世に与えた影響を考えれば、独り善がりの志では無かったのだと言えよう。

残念ながら「迷わず」の行き先が、頑迷さに陥る人は少なくない。
姿を描写するならば、人の話を聞かない人がそれに当たる。

ある人は、現場経験が長く、責任ある立場に居るのだが、質問には答えず、命令には従わずという態度を貫き、結果、「あの人に言っても仕方がない」と見られるに至っている。

現場経験が長いのなら、それだけ実情に通じており、知識にも技術にも余裕があるのだから、職場内で頼りにされても良い筈なのだが、そうはならなかった。不思議に思って経歴を調べてみると、確かに現場経験は長いのだが、部署全体に関わるような、責任ある仕事を任されたことは無く、あっても一年で部署を移っていた。

過去のことは、資料でしか分からないし、知っていることは、目の前の態度だけであるから、これから述べることは、私の偏見になるだろう。それでも敢えて言葉にするのなら、この人は、人から学ぶという謙虚さを学ぶ機会を得られなかったがために、頑迷にならざるを得なかったのだ。

高等学校を卒業してから、現場一筋だから、この職場以外の社会を知らず、また、職場内で己の身を守る術を、自分のやり方を守る以外に知ることが無かったのだろう。

個々人によって性格は異なるから、一概には言えないが、思春期前後の若者は、自我の拡大の最盛期にある。我こそはと思っている人間にとって、他人の意見など障碍としか感じられないだろう。加えて職場の風土として、助け合いよりも自助努力が重視されていたとしたら、自分以外に頼るものはなく、そうした価値観に染まっていたならば、他人の声に耳を傾けないのも頷ける。

別に擁護するつもりはないが、この姿勢で退職まで貫いたとしたら、孤独な人生が待っていることは間違いがない。家族には優しいという話もあるが、地域コミュニティーからは孤立することだろう。

今後予想されるこの国の構造として、人口は極端に減少する。

現在の社会が、大凡正しく機能しているのは、それぞれの地域が、何とか組織の形を保っているからであって、今後の人口減によって、このままでは機能しなくなることは目に見えている。そうした近い未来に於いて、個人でできることなど、たかが知れている。

今後求められる能力は、個々の能力を繋ぐ力、即ちコミュニティーを築く能力である。
自ら発信する力と、相手の発信を正しく受け止める力の両方が必要で、関係性としてはアサーティブであることが求められる。

(アサーティブとは、自分も相手も尊重した自己主張や自己表現のこと。誠実に、率直に、対等に、要望や意見を伝える方法であり、単なる自己主張ではなく、相手も自分と同様に尊重することから、正しい対話の在り方だと考えられる。)

孔子は六十歳になって、他人の言葉に素直に耳を傾けられるようになったとのことだが、どのような心境の変化があったのだろう。今、頑迷な上司として、周囲から煙たがられるかの人物は、その年齢になれば人の話を聞けるようになるのだろうか?

どのようなときに、人は人の話を聞き、或いは、聞かなくなるのだろう。
興味の有無だけでは答えにならないように思えるが、興味とは理解に通じるから、ここに手掛かりがあるかも知れない。

保育所の建設に反対した高齢者の言葉の奥には「今の生活を脅かす不安要素である」と言う認識が隠されていた。

「自分にとって理解しがたいものは怖い」だから「知らなくていい」そんな心理が透けて見える。

人の話を聞かないでいる、或いは質問に答えないという態度は、自分の知る現状維持にとっての不安要素でしかないから無視するのだと言えよう。

「分からないから教えて欲しい」その一言を素直に言える風土があれば、或いはこのような現状ではなかったかも知れない。上に立つものとして、或いはプライドが邪魔をして、そのような態度をとることが出来ないのだろうか。与えられた席を温めるだけで、誰からも声を掛けられず、職務の向上に繋がるかも知れない意見を無視する彼は、企業に対して何をもって貢献しているのだろう。

残念ながら、頑迷さに至る人は少なくない。

己を表現する手段を他に知らない、無免許でオートバイに跨る少年たちと同じく、己の知る価値観という井戸から抜け出せないまま、時間だけを重ねていく。

今すぐとは言わないが、孔子に倣い、人の話に耳を傾ける謙虚さをもち「思うままに生きても、人の道から外れるようなことはなくなった」と言える人生を歩みたいものである。

(『論語・為政』に「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)」とあるのに基づく。)









*  *  *  *  *









When you did it newly, and a technique was adopted, might you adapt immediately?

The invention of the typewriter facilitated the making of the document and, on the extension line, had a word processor.
It was thought development to reduce a consumption of the paper at first, but really increased consumptions from ease of the making.
The appearance of the personal computer changed what's called spreadsheet into the imminent thing of people in addition to the making of the document.

It is the times of the information communications network called the Internet that I came next.
It becomes the times to get the information to think to be need only if I check it and I let you enlarge an information gap by presence of the interest and reach it at the present.

However, the technological change does not know the place to stay.

Keyboard input was not natural, and, from flick operation to voice inputting, the progress of the apparatus improved operability, and, with it, as for the human being of the side to treat, a demanded operation technology considerably decreased.

Time to renovate an on-site apparatus may be it immediately on the site to there since the apparatus which circulates including a smartphone in the market although it is demanded that I know the operation of the old apparatus does not need high operation so that keyboard operation is mainstream, and the word to be called techno harassment is born still more.

(because it should be a simple information terminal and does not need a further function, for the human being who does not assume creative utilization, the apparatuses such as personal computers are not connected for the acquisition of the operation technology.) It will be the place that said "a convenient board supporting life" not "the box of the dream to be able to do anything";).

By the way, there is the word to tell to make 40, and to be puzzled.

I become 40 years old, and originally, by the words of the meaning that the reason becomes clear, and a hesitation disappeared for way of life of oneself, Confucius is the one paragraph of the words that looked back toward the life. The basics of study are completed and will be the place where I said that I came to advance the way without being at a loss.

Speaking of 40 years old, is the nucleus in the company; or no longer.

I finish time to push on with youth and may be in a position that responsibility is demanded.

Because the operation as the regular staff is difficult, it cannot be necessarily said that it is so, but will be not different these days at the time that I have some kind of philosophy for one's life, and is good when I think about the average age. It may be said that it is one philosophy to decide, "I live in this way".

By the way, it continues when "I do it, and an ear follows the sixty to make 50, and to know the destiny" in former one paragraph.

It may be said that it is that it right knows the destiny to know what is demanded from oneself as as a man of business or a social member.

Then how is an ear to say to follow it?

As for it being the meaning to say, "it becomes to be able to listen to the words of the person obediently", but the back saying this if I read it and untie it that I hesitate, "there might not be the thing that it shakes one's thought regardless of the opinions of the circumference" in the days of 40 years old. As is expected, it is the place that said with Confucius that it is a difficult thing in the secular society to carry through will, and accomplished. In addition, it may be said that there was not it for the self-satisfied will if I think about the influence that his philosophy gave in afterworld.

Unfortunately there are a lot of people that a destination "losing" falls into obstinacy.
The person who does not hear the story of the person is it if I describe the figure.

A certain person has a long spot experience and is in the situation where there is the responsibility, but it goes through a manner following in an order without answering it for a question, and it becomes considered a result that "there is no help for it even if I say to that person".

Because only it was common to the fact if spot experience was long, and both knowledge and the technique had room, it should be allowed to be relied in the workplace, but it was not so. When I wondered and checked a career, the spot experience was surely long, but the responsibility work that there was concerned with the whole post was not left and moved at a post in one year even if there was it.

I know the past only with a document, and, as for speaking it, it will be in my prejudice from now on because it is only a manner at hand to know. Still an opportunity to learn the humility that this person learned from a person was not got, but couldn't but become obstinate if I made words daringly to collect it.

I do not know the society except this workplace after graduating from a high school because the spot is straight, and there would not be the thing that I know the art protecting one's body again in the workplace unless I protect one's way.

Because the character varies among individuals, I cannot necessarily say, but there is the youth about the puberty in the golden age of the expansion of the self. For a human being thinking as for me, it will be felt only with the obstacle including the opinion of another person. In addition, what do not listen to a voice of another person can nod if there is not the thing to rely on other than oneself and was dyed in such a sense of values if a self-act effort was made much of than cooperation as climate of the workplaces.

I do not intend to protect you particularly, but, as for the lonely life being waiting, there is not a mistake if I kept this posture until resignation. A family has the talk to be gentle, but will be to stand alone from the local community.

As structure of this expected country, the population will extremely decrease in future.

Current society, very much ordinary one functioning definitely is because each area keeps the form of the organization somehow, and it is obvious in this situation not to function by future population decrease. Including being able to do it in individuals in such future that is close to is not worth much.

Found ability will be power to join individual ability together namely ability to build the community in future.
Both power and power to take the dispatch of the partner definitely to send it to by oneself are necessary, and it is demanded that it is assertive for a relationship.

(the assertive is self-assertion and the self-expression that both oneself and the partner respected.) Because it is a method to convey a demand and an opinion equally openly faithfully and respects the partner like oneself not simple self-assertion, it is thought that it is the way of right talks;).

Confucius became 60 years old and seemed to come to be listened to words of another person obediently, but there would be the change of what kind of state of mind. Will the person felt uncomfortable with as the obstinate boss from all around come to listen to the story of the person now if I become the age?

Or the person will not hear it to hear the story of the person when.
He/she does not seem to answer only in having interest or not, but there may be a clue here because I keep it with the interest for understanding.

Recognition to say, depths of the words of the elderly person against the construction of the nursery school "was the uneasiness element which threatened the present life" was covered.

Because "the thing which it is hard to understand for oneself is scary ," such a psychology that "you do not need to know" is transparent.

It may be said that I ignore it because the manner I do not hear the story of the person or not to answer a question is only an uneasiness element for the status quo that oneself knows.

If there was the climate which could say word "to want you to tell me because you did not understand it" obediently or might not be such present conditions. As a thing standing on the top or pride disturbs, and can you not take such an attitude? I only warm the given seat and am called out to from nobody, and he who ignores the opinion that may be connected will contribute to the improvement of duties with what for a company.

Unfortunately there are a lot of people reaching the obstinacy.

As well as boys sitting astride a motorcycle in having no license not to know the means to express oneself elsewhere, I repeat only time without being able to get away from the well called the sense of values that oneself knows.

I do not say right now, but, after the fashion of Confucius, want to walk the life when it may be said, I have humility to listen to the story of the person, and it "disappeared to come from the way of the person even if I live as I think".

(for "the Analects of Confucius, governing" "I did it in a sixty to do it in half a century, and to know the destiny, and I followed the place that it did it, and the heart wanted, but (I wanted to be study at 15 years old without mistake getting a quadrature, and there were the basics of study at 30 years old, and sixtieth year, a seventy could become independent without doing it in a forty to do it, and to stand to 30 to have child reason, ten I Yugo, and to want to be in study, and being puzzled, and it disappeared it was, and to hesitate about 40 years old.") I know the mission that 50 years old was given from the sky and come to be able to listen to the words of the person at 60 years old obediently and am based so that there is that I come because of 70 years old from the way of the person even if I live as I think with lost).

10月『視野と想像力/A field of vision and imagination』

例えば道を歩いていて、頭上から鳥の糞が落ちてきたとしよう。
「運が悪かった」と、その場を過ごせばそれまでだが、あなたは注意するかもしれない。

いつも歩いている道なので、気にも留めなかった電柱が、実は鳥の止まり木になっていることや、電柱付近の路面が、糞で汚れていることに、注意深くなれば、気が付くだろう。

同じようなことは、あなたの職場や家庭などでも、十分に起こり得る。
人は、自分の興味があることはよく見ているが、そうでないことには殆ど関心を払わない生き物だからだ。

先日、新人を含めたメンバーで、災害訓練が行われた。

それに先立つ打ち合わせで「毎回役割が変わるのは混乱する。一つに決めておいてほしい」と言う意見が出た。曰く「訓練時に、今日は何の役割だったかを考えていては、対応が遅れる」とのことだった。

例えば修理手順が決まっている機械への対応なら、それでも良いだろう。
逆に、火点や震源など、臨機応変が求められる災害への対応の場合、やらなければならないことが先にあり、役割はその場で判断される。つまり、誰が何の役割をする、ではなく、役割を求められたときに誰でもできる状態にする必要があるのだ。

先の意見は恐らく「求められる役割を正しく果たしたい」という思いから来るものだろう。決まった役割を正しく果たせば、大きな問題になることは少ない。どちらかと言えば、保身的な意見だと言えるだろう。こうした発言から、その人の、訓練に対する姿勢が見えてくる。言い換えるなら、訓練そのものが目的であり、実際の災害を想定していないのである。

いざという時に、どの役割でもできるよう、訓練では複数の役割を交代で配しているのだが、その意図を読み取ることは困難だったようである。なお、緊急時にどのような動きが必要かを検証するため、抜き打ちの訓練も予定されていたのだが、保身的なメンバーに対して実施したならば「何をしたら良いか分からず混乱した。役割を設定して欲しい」と言うような、本末転倒の反省が出ることだろう。

勤務の状態によって、人の位置は変わるのだから、どの役割でもできるよう、敢えて複数の役割を設定しているのだと説明を加えたが「それは分かりますが、一つに決めてほしい」との返事だったところを見ると、求められる役割を負担だと感じたのだろう。自身の力量を低く見積もっているか、自信がないかのどちらかである。さらに言えば、想定する責任の範囲を、求められるよりも狭く思っているのかもしれない。

指示されたことを確実に行うというのは、必要な姿勢の一つではある。問題は、それがどこに向かっているのか、分かっていない場合に、形だけを守ることへと向かいやすいことである。組織上、上からの指示があれば、それは守るべきことであるが、下からの報告文書が確認を受けるのと同様に、上からの指示でも、確認は必要なことである。不備を見落とした場合、組織全体が不利益を被るのことになるので、立場の違いはあれ、確認は常に必要なことである。

しかしながら、言われたことにそのまま向き合う姿勢だと、「やらされる仕事」になったり、「無理な想定に不信感を抱く」ことになったりする。何が想定されて、そのような指示がなされるのかを考える余裕が、現場では薄れるようである。目の前の仕事だけを見てしまえば、組織全体の繋がりを想像することは難しい。

「正しく割り振ってもらえればやります」という職員は多いが、正しさは状況によって変化する。

時間がそうであるように、日々変化する市場に対し、臨機応変な働き方をするためにも、広く視野をもち、双方の立場を想像したいものである。








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For example, I walk the way, and it will be said that the feces of the bird fell from the overhead.
It is then, but you may be careful when "unlucky" if you spend the place.

Because it is the way which I always walk, in fact, the telephone pole which I did not keep in mind either will notice the perch of the bird if it becomes careful about a road surface of it being and the telephone pole neighborhood being dirty with feces.

The similar thing is possible enough at your workplace or home.
People watch one's thing that it is interested in well, but this is because it is the creature which does not almost pay interest without being so.

In the members who included a new face, disaster training was carried out the other day.

Is a meeting to precede it; it "is confused that a role changes every time". An opinion to tell to want you to decide on one appeared. When "I thought at the time of training what role it was today, a reason seemed to be behind with correspondence".

For example, it will be all right if it is the correspondence to the machine which a repair procedure is decided on.
On the contrary, in the case of the correspondence to the disaster that the adaptation to circumstances including installation of an automatic firearm and the seismic center is demanded from, there is what you must do earlier, and the role is judged on the spot. In other words anyone plays any role; then there is not it, and it is necessary for even nobody to do it in the state that it is possible for when a role was demanded.

Probably the former opinion will be a thing coming from thought "to want to serve as a demanded role definitely". It rarely becomes the big problem if I achieve a decided role definitely. If anything, it may be said that it is a self-protection-like opinion. From such a remark, I can see an attitude toward training of the person. Training itself is a purpose and does not assume a real disaster if I express it in other words.

I posted plural roles by the training by turns to be able to do any role in the case of emergency, but it seemed to be difficult to read the intention. In addition, if the surprise training was planned to inspect what kind of movement was necessary in emergency, but enforced it for a self-protection-like member; "was confused without knowing what to do". It will be that reflection of I tell to want you to set a role, putting the cart before the horse is given.

I added explanation when I set daringly plural roles, but would feel a demanded role so that it was possible by all roles because the position of the person changed by a state of the duty when I watched the place that was an answer, "it knew it, but wanted one to decide it" when it was a burden. That you estimate the ability of own to be low is either that there is not confidence. Furthermore, I may think narrowly if I say than a range of the responsibility to assume is found.

It is one of the necessary posture that perform what was ordered surely. When I do not know where it faces, a problem is to be easy to leave for following only form. If there are the instructions from the top in an organization, it is what you should follow, but confirmation is a necessary thing by instructions from the tops like the report document from the bottom receiving confirmation. When overlook deficiency; the whole organization a disadvantage of putting it on because it is expected; of the situation be different, and confirmation is an always necessary thing.

However, when it is posture to just face each other in having been said, it is for "the work that I am made to do" and is "to hold distrust in the assumption that it is impossible". What is assumed, and room thinking about whether such instructions are accomplished seems to fade on the site. It is difficult to imagine a connection of the whole organization if I watch only work at hand.

There are many staffs "to do it if I have you assign it definitely", but the correctness changes by the situation.

It is wide and has a field of vision to do a way of working adaptation to circumstances for a market changing every day so that time is so and wants to imagine both situations.

9月『期待と都合/Expectation and circumstances』

その仕事に初めて就いたとき、不安と期待はどちらが大きいだろうか?

組織で働いていると、働いている人に求められるのは、役割を果たしているかどうかであり、だから適正の有無と言う判断に至るのだと、改めて感じる。

組織には指針があり、指針を実現するために役割を設けているのだから、適性の有無は、指針に合うかどうかで判断される。

指針が固定化しているならば、人の選別は至って簡単にできる。

これから山に入ろうと言うのに、見るからに着飾っていたり、或いは持病があったりしたら、パーティーから外されるのは当然だと言えるだろう。

しかし、指針に間違いがあったとしたら、話は別である。

間違い、とは言えないかも知れないが、時代の変化と共に、市場の価値観も変わっていく。

本当にその人を、パーティーから外したり、或いは再教育したりすることが正しいのかどうか、柔軟に考え、総合的に判断する必要が出てきたのが、情報化社会の真の姿である。

今年はとある福祉系の施設で、非常に痛ましい事件があった。

犯人を擁護するつもりは全く無いが、事件を捉える窓口は幾つもある。

例えば犯人が極端な思想に至った原因は何なのか。

薬物による異常とするのも一つの結論だが、そこに至る精神状態、生活状態、就労状態はどうだったのだろう。

退職前は、既に説得を聞き入れる状態では無かったようだが、そこに至るまでに施設内で何があったのか。

福祉施設の労働状況が厳しいのは、今に始まったことではない。

そもそも肉体労働であり、人を相手にする仕事は気を遣う。

また、利用者第一であり、職員の健康など始めから考えられていない。

これは奉仕の心が強いと言えるが、権利意識の無さとも言える。

世のため人の為と言われたら、断りにくい国民性である。

最近は少し見直されている面もあるが、就労環境が見直されなければ、因習は続けられることだろう。

この国では、福祉施設そのものが、日常から切り離されているのだ。

せめて山中ではなく、人の目がある街中にあれば、あそこまでの事態にはならかったのではないだろうか。

即ち、「ちょっと普通じゃない人は、日常から離れたところで、保護されていてほしい」というのが、健常者と呼ばれる、一般人の感覚であり、福祉施設に対する期待感なのである。

自分たちの日常に、イレギュラーは要らないと言うのが、定型発達者たちの本音なのだ。

脳の研究が進んで、定型と非定型とに、明確な区分の無いことが分かっても、多数派かそうでないかによって、人は人を差別するのだ。

自分の考えややり方を基準に、都合の良いやり方やあり方を期待し、そうでないときは、否定する感情を正当化するのである。

組織内に於いて、自分に期待される役割は何なのかを考えたとき、ノルマをこなすことだと言うのであれば、非常に分かり易い。

利益を上げたいという指針に合致し、それさえ守れば良いのだから楽なものである。

しかし、時代は常に変化している。

固定化した指針を守ろうとしても、市場に合わなければ継続は難しい。

前年度と比べて、営業成績が下がっていたとしても、成績の基準が、市場に合っていたかどうかという問題が残るのが、価値観の多様化した現代社会なのである。

とは言え、市場の変化から謙虚に学び、評定の基準を見直す企業は希少である。

多くは前例に倣い、既に凝り固まった営業方法を再教育するだけなのだ。

大量のリストラと自殺者は、その古い価値観によって作られたと言えるだろう。

たった一つの物差しを差し出して「お前はこれに合っていない」と切り捨てるのだから、簡単なものである。

1匹でも生き残れば良いと、3万個の卵を産む魚はいるが、古い価値観から抜け出せず、高まったノルマに縛られて余裕の無くなった現代人は、そのような生き方に戻ったのだろうか。

指針に合わない者、特別な支援を必要とする者、自分たちの考えに合わない者を切り捨てて、その先に何が残るのだろうか。

世界に先駆けて、超高齢少子社会を邁進する我が国だが、この上更に少数精鋭を気取るならば、その未来は明るいだろうか?








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When they got the work for the first time, which do uneasiness and the expectation have a big?

When there is it whether what is demanded from a working person when I work in an organization plays a role and therefore reaches presence of the appropriateness and the judgment to say, I feel it some other time.

Because the organization has a guidance and arranges the role to realize a guidance, it is judged whether the presence of the fitness is correct for a guidance.

If a guidance immobilizes it, I can simplify the sorting of the person exceedingly.

It may be said that what is taken off from the party is natural from now on if and I dress up discernibly though I say to enter the mountain or there is a chronic disease.

However, the story is different if a guidance included a mistake.

There may not be it, but the sense of values of the market changes with the change of the times despite a mistake, too.

It is the true figure of the information-oriented society that I think flexibly, and need to judge generally came out whether it is really right and I take it off the party or to reeducate the person.

In facilities of the dove welfare system that there was, there was a very pitiful case this year.

There is not at all the intention to protect a criminal, but there are some tellers catching a case.

For example, what is the cause that a criminal reached the extreme thought?

It was the conclusion with the drug having one being abnormal, but a mental condition, life to there were in a state, and how would about the working state.

There did not seem to be it in the state to take persuasion anymore, but, before resignation, what was there in facilities before I reached there?

It is not to have begun in now that the labor situation of the welfare institution is severe.

In the first place it is manual labor, and the work to have anything to do with a person minds.

In addition, it is the user first and is not thought from the beginning including the health of the staff.

This can say that a heart of the service is strong, but can say the lack of the sense of rights.

It is the national traits that it is hard to decline if said for a person for the life.

There is the aspect reviewed a little, but convention will be what I can continue recently if working environment is not reviewed.

In this country, welfare institution itself is separated by daily life.

Not mountains, I might buy flower and others for a situation to there at least if in the town with the eyes of the person.

In other words, it is the sense of the commoner called the physically unimpaired person that "want you to protect the person who is not slightly common in a place apart from daily life" and is a feeling of expectation for the welfare institution.

It is the true intention of people of fixed form development to say that their daily life does not need the irregular.

Even if the study of the brain advances and understands that a fixed form and atypical do not have clear division, the person discriminates against a person whether it is the majority, or it is not so.

When it is not so, in hope of a way and the way that it is convenient for a standard in one's thought and way, I justify feelings to deny.

It is very plain if I say that it is to handle a quota when I thought about what the role expected by oneself is in the organization.

Because you should protect even it, in line with an indicator to want to raise profit, it is comfortable.

However, I always change in the times.

Even if I am going to protect a stereotyped indicator, the continuation is difficult if I do not match the market.

It is the modern society which diversified of the sense of values that a problem whether the standard of results fitted the market is left even if business results fell in comparison with last year.

However, I learn from the change of the market humbly, and the company reviewing a standard of the rating is rare.

Most only already reeducate a fixed business method after the fashion of a precedent.

It may be said that a large quantity of restructuring and suicides were made by the old sense of values.

Because I cut it off when I hold out one only ruler, and "you do not match this", it is easy.

When even one of them should survive, there was the fish which laid 30,000 eggs, but it was tied up to the quota that increased, and would the lost modern people of the room come back to such a way of life without being able to get away from the old sense of values?

I cut off the person who does not fit the person who does not match an indicator, a person needing special support, their thoughts, and what will stay over there?

Ahead of the world, it is our country pushing on in a super old society with a decreasing birthrate, but is the future bright if I pose as gathering the best people more any further?

8月『情報統制と未来/Information control and the future』

違法視聴動画の取り締まりが厳しくなった。
著作権を守ると言う意味では、大変良いことである。
著作権者の利益を守らなければ、新しい作品を生み出すことが難しくなるからだ。

とは言え違和感もある。

もともとテレビ作品というものは、広告収入によって成り立っていたものであり、
リアルタイムで放送することが当たり前であった。
録画保存するという概念が生まれるにあたり、そちらの機器に利益を求める企業も生まれ、
スポンサーとしてテレビ局を支えたところもある。

公共電波に乗せて情報を流すこと自体がサービスであり、
サービスを生むために企業が動いていたと言えるだろう。

翻って、インターネットの普及した現在はどうだろうか?

テレビの質が下がったと言われる昨今である。
リアルタイムで視聴するというスタイルは、
企業戦士が生まれた辺りから既に怪しくなっていたが、今は難しいと言わざるを得ない。

労働時間が超過しているので、リアルタイムで視聴する時間など無く、録画視聴が主流である。
それでも時間と場所が限定されるので、テレビ自体に魅力を感じないと言うのも分かる話である。

スマートフォンを始め、インターネットへの接続が容易になると、
リアルタイムで視聴するという概念すら怪しくなった。

そもそも、映像作品を視聴しようと思ったら、時間が制限されるのだ。
まとまった時間を確保するのが難しいのに、
何故テレビ局の都合に合わせなければならないのかと言ったところだろう。

オンデマンドと言って、見逃し配信のサービスが始まって久しいが、
これが有償化されているところに、時代を感じる。

有償のテレビ受信機に対して、無償で番組を放映していたのが、
今は受信機の購入に加えて、視聴その物にも対価を求めるのである。
対して映画は、始めから有償であったから、
テレビ放映を無償で提供する姿勢が、始めから間違っていたのだろうか。

しかし、有償配信であったなら、戦後の復興は為し得なかっただろう。

問題は、広告収入が期待されなくなったことである。
これは、視聴云々の問題ではない。
生活スタイルの変化に対応できなかった、経済の問題である。

CO2削減という指標が、今世紀に入って掲げられたのは、記憶に新しいところであるが、
実際のところ、『地球環境を守る』と言うのは、大衆の関心を引くためのお題目であって、
真の目的は、新たな経済市場を開発するところにある。

本気で環境を守る気があるのなら、エコ製品に対する補助に、期限を設ける必要などないのだ。

技術の進歩によって、人々の呟きが、公の場に発信され易くなり、
リサイクルの方が化石燃料を消費するとか、
寒冷化の方を心配した方が良いと言った情報が並行して流れた為、
これらの思惑は比較的短期で潰えたのであるが、そこは資本主義。

既に次の市場開拓に乗り出しているのである。
映像コンテンツの有償化は、その一つに過ぎない。

テレビ放送を媒体として商品を売り込み、実際の市場に向かわせる。
撮影したものを電波に乗せれば済むので、
広告を印刷して配達してもらうより、ずっと効率が良かっただろう。
ここにテレビと電話による通信販売の手法が生まれ、現在のネット店舗へと繋がっている。

資本主義に於ける大衆の役割は、企業の商品を購入することである。

しかし、それは権利であって、義務ではない。

企業は大衆のニーズに合った商品開発に加え、それらの存在を伝えなければならない。
それが多くの場合広告であり、広告の形態が、
紙からネットへと変わってきたのが現在の日本である。

地域に根差したスーパーなどは、顧客の口コミのみで繁盛させるので、
広告費の心配は要らないのであるが、税金を納めているだけの企業の場合、
口コミに期待はできないので広告に頼らざるを得ない。

技術の進歩は目覚ましいが、同時に情報も共有されるので、独自色を出すことは難しい。
残されるのは価格競争である。
人件費をこれ以上削ると経営が成り立たないので、広告費を抑えることになる。

映像コンテンツの強みは、広告自体が商品になるところである。
売り物になると気付いたから、慌てて規制を掛けるようになっているのだろう。

現在の企業は『今売れている物をとにかく売り、目先の利益を得る』傾向にある。
某大手出版社が漫画の発行部数をやたら増やしているのは、
漫画が市民権を得ているからと言うよりも、
漫画くらいしか売れないから売っていると言った方が良い。

これは、大衆の生活スタイルの変化に伴う、活字離れの延長上にあるが、
大衆の興味関心が多様化している現在において、
それらを包括し得る十年二十年先を見越した投資などは、怖くてできないのである。

このような姿勢なので、後継者が育たないのは当たり前であり、先細りの未来しか見えない。

サービス残業が当たり前だと言っていた上司が、
昇進して管理職になった途端年休取得は義務だと言い出した時には、
どの口がそれを言うなどと思ったものである。

その間に病休者を大量に送り出したので、
恐らく監査を恐れてのことなのだろうと白けたものである。

そんな上司の口癖は『想像力が足りない』だったが、
今から思えば『自分にとって都合の良い想像力』と言う意味だったに違いない。

『立場が変わると言うことが変わる』とは、昔から言われる言葉の一つだが、
これこそ『相手の立場を想像する力の欠如』を言い表したものだろう。

自らの過ちを認めて態度を改めることを『君子は豹変する』と言うが、
先の上司の場合はこれに当たらない。

『掌を返す』と言うのが正しく、理由は自分の立場のみを発言の根拠としているからである。

恐らく視野狭窄に陥っているのであろう。

会社の風土に依るところは大きいが、
目先の利益を追い求めれば、自然とそうなっていくものである。

『井の中の蛙』でありながら、大海を想像して行動できる人材は貴重であり希少である。
何故なら蛙たちにとって、広い視野からの意見など、
目の前のノルマには何の役にも立たないからだ。

実際は役に立つのだが、それは長いスパンで取り組んだ場合であって、
日々の成否のみを軸に生きる彼らに、その価値は永遠に分かるまい。

偏見を承知で言うならば、正規職員と嘱託職員の責任感に通じるものがある。
言われたことだけをやっていれば良いのと、
仕事そのものを考えて動かすのとでは、取り組む姿勢が全く異なる。

言われたことだけで済むのなら、自分の裁量は生かせないものの、
責任を負うことがないので楽だろう。

とは言え、成果主義とバブル期の価値観に染まった世代は、
考える軸がずれているので、更に厄介であり、
彼らは正規職員にさえ、達成不可能なノルマを課して追いつめて行く。

上司が保身に走り、部下が心身を破壊する状況で、次世代の育成など出来るわけがない。

子どもをもたない選択、結婚しない選択は、どちらも経済の問題である。

人が当たり前に生まれて当たり前に死んでいくのは、近代以降急激に難しくなった。
冠婚葬祭全てが有償であり、自然死した日には不審死という事件扱いである。

生物学的に見れば、人類は過剰繁殖状態にあるので、出生率の低下は自然なことである。
であるならば、人口減を前提に、継続可能な社会を形成することが早急の課題だと言えるだろう。

いつまでも過去の指標にしがみついている場合ではないのだ。

国の打ち出した経済政策は全て、人為的に経済格差を拡大させるものであった。
恐らく多くの低所得者層と一部の高所得者層とに分断するのが目的だろう。

国民性から言ってテロはまずあり得ないが、治安は悪化し、国力の低下は必至である。

経済指標に依らない当たり前の生活を想像することが、次世代の為にできる唯一の行動である。








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The control of the illegal seeing and hearing animation became severe.
In a meaning to tell to follow a copyright, it is a very good thing.
If it does not follow the profit of the copyright holder, this is because it becomes difficult to produce new works.

However, there is the sense of incongruity, too.

Originally what's called TV work made ends meet by ad revenue, and it was natural to broadcast it in real time.
When the concept that I record it and save is born, the company for the profit is born to that apparatus, and there is the place that supported a TV station as a sponsor.
To play information to a public electric wave is service, and it may be said that a company moved to produce service.

It flutters, and how about the present when the Internet spread?

It is these days said that pawn of TV fell down.
It became doubtful, but the area where a corporate warrior was born as for the style watching in real time cannot but already say now that hard to please.

Because working hours exceed it, without time to watch it in real time, the recording seeing and hearing is mainstream.
Still it is a story to know that I say that I do not feel charm in TV in itself because the when and where is limited.

If connection to the Internet became easy including a smartphone, even the concept that I watched in real time became doubtful.

In the first place time is limited if I intend to watch a picture work.
Though it is difficult to secure large amount of time, it will be the place that said to the circumstances of the TV station which is why that I must put it together.

I say on-demand and service of the passing over delivery begins and it is a long time, but this is made payment and feels the times.

It increases it for the purchase of the receiver now to have televised a program for a charged TV receiver gratis and demands value from a seeing and hearing thing.
It faced each other, and, as for the movie, would posture to provide TV broadcast gratis be wrong from the beginning from the beginning because it was charged?

However, the postwar revival might not do if it was charged delivery.

A problem is that ad revenue was not expected.
This is not a problem of the seeing and hearing so and so.
It is a problem of the economy that was not able to support the change of the lifestyle.

It is a new place, but, actually, it is an empty slogan to pull a public eye that say, "I follow a global environment", and, as for what an index called the CO2 reduction is included in this century, and was raised, there is the true purpose in memory in the place developing a new economic market.

There is not need to arrange the time limit for assistance for the eco product if I intend to follow environment seriously.

The mutter of people became easy to be sent to the public place by a technological change, and recycling used fossil fuel, or relatively short-term, these expectations collapsed chilliness because the information that said that should worry drifted towards becoming it in parallel,; but there is capitalism.
I have already started the next market reclamation.
Becoming it is only one the payment of picture contents.

I sell a product through the medium of television transmission and let you go to the real market.
It would be much more efficient than I had I printed an advertisement and deliver it because I finished it if I put the thing which I photographed on the electric wave.
The mail-order technique with TV and the telephone is born here and leads to a current net store.

A role of the public in the capitalism is to purchase the product of the company.
However, it is a right and is not duty.
The company must convey those existence in addition to product development in accord with needs of the public.
It is an advertisement in many cases, and it is current Japan that the form of the advertisement turned from paper into a net.

Because I let you proper only by the word of mouth of the customer, we do not have to worry about advertisement costs in the supermarkets which took root in the area, but cannot but rely for an advertisement because we cannot expect it for word of mouth in the case of the company where we only put a tax in.
The technological change is remarkable, but it is difficult to give German idiochromatic because the information is shared at the same time.
It is price competition to be left.
Because management does not make ends meet when I reduce personnel expenses further, I will hold down advertisement costs.

The strength of picture contents is the place where advertisement in itself becomes the product.
Because I noticed that I am marketable, I will come to take regulation in a hurry.

The current company tends, "anyway, to sell a selling thing now, and to obtain an at hand profit".
You should say that you sell because only comics are popular than you say that a comic gets citizenship as for a certain person major publishing company increasing the circulations of comics too much.
There is this on extension of keeping away from printing type with the change of the lifestyle of the public, but scary, and it is not possible for the investment that foresaw ahead for 20 years for ten years when I can contain them in the present when interest interest of the public diversifies.
Because it is such a posture, it is natural for a successor not to be brought up and is seen only in the tapered future.

When I said it on a holiday in a year as soon as the boss who said that unpaid overtime was natural was promoted and became the managerial class when the acquisition was duty, I thought that which mouth said it.
Meanwhile, I was spoiled because I sent a person of illness rest out in large quantities when probably it would be to be afraid of inspection.
The favorite phrase of such boss "lacked imagination ," but must have been "the imagination that it was convenient for oneself" and a meaning to say if I thought now.
It is one of the words to be said from old days that it "changes to say that a viewpoint changes", but this will be the thing which expressed "lack of the power to imagine the situation of the partner".
I say that I change a manner in acknowledgment of own mistake, "the man of virtue changes suddenly", but, in the case of the former boss, am not this.
It is right to say, "I return a palm", and this is because the reason assumes only one's viewpoint the grounds of the remark.
Probably I will fall into a field of vision stenosis.
The place to depend on the climate of the company is big, but do not go with nature and go if I pursue at hand profit.

It is valuable, and the talented person who I imagine the ocean, and can act is rare while "being a narrow-minded person".
For frogs, this is because it is useless for what to the quota including the opinion from the large field of vision at hand.
Actually, it is useful, but it wrestles at a long span, and they who live only centering on the daily success or failure will not know the value forever.
There is a thing abreast of a sense of responsibility of the regular staff and part-time service staff if I say prejudice by agreement. Posture to wrestle is different in thinking about one and work itself, and moving that you should do only that you were said at all.
It will be comfortable if I get off only by having been said because one's discretion does not take responsibility although I cannot keep it alive.
However, because I am out of an axis to think about in a generation stained with the principle of result and the sense of values of the bubble period, it is more difficult and they impose an unachievable quota on even the regular staff and corner it.

Upbringings next-generation in the situation that the boss runs about for self-protection, and a subordinate destroys mind and body.

Choice not to have a child, choice not to marry are problems of the economy both.

It became suddenly difficult that a person was born commonly and died commonly after modern times.
All the ceremonial occasion is charged and are handled as a case called the suspicious death on the day when I died naturally.

The human is the surplus one which is in breeding state, and a drop of the birth rate is a natural thing if I look biologically.
Assuming , population decrease, it may be said that it is an immediate problem to form the society which can continue.

When I do not hold on to a past index forever.

All the economic policies that the country proposed let economic disparity spread artificially.
Probably it will be a purpose to divide in much lower-income class and some upper-income group.

Judging from national traits, terrorism is scarcely possible, but the peace and order turn worse, and the drop of the strength of a nation is inevitable.

It is the only action to be possible for the next generation to imagine natural life not to depend on economic indicators.

7月『ミスの受容/Reception of the mistake』

予定していた会議を終え、参加者を送り出した後、最終点検のために会議室を訪れると、
定位置にあったはずのディスクケースが別の場所に移されていて、しかも破損していた。

良く見ると、途中の床に破片があったため、後片付けを任せていた職員に、それとなく、
ディスクケースを移動させるようなことがあったのかを訪ねてみた。

まずは「知りません」とのことだったが、同伴を求めて再度点検し、
「ここに置いていたディスクケースがこちらに移っていたのだけれど、何か知らないか」と
尋ねたところ、「それは自分です」と答えた。

そこで、実はケースが破損していて、この破片はここで拾ったのだと、
現物を見せながら伝えると、「私が落としたかも知れません」と答えた。

こういう場面に出会ったとき、どのように捉えたらよいのだろうか?

「自分のしたことなのに、分からないとは何事か」と考えたとしたら、
単に部下を責めているだけで、何の解決にもならない。

「私が落としたのかも知れません」ということは、本人にとってはさして重要なことではなく、
本当に、落としたという実感がなかったのだとも考えられる。

人は、自分にとって重要でないことは、意図せず見落とすものである。

今回しなければならないのは、部下の不注意を責めることではない。
不特定多数の人間が出入りする場所に、破片が放置されないようにすることである。

それを踏まえて部下への対処を考えると、
危機管理意識に乏しいという点は、改善を求めたいところである。

人はミスをする生き物なので、破損させることは仕方がない。
但し、落とした時に、「壊したかもしれない」と、床を確認しなかった点は、
誰かが破片を踏むという想像が不足していたと言えるだろう。

さらに言えば、落としたのを拾う時に、破損に気が付かなかったのかも知れないから、
注意力が不足しているとも考えられる。

これらは個人差があるので、多くを求めるつもりはない。
但し、開口一番が「知りません」だった点は、注目する必要がある。

「知りません」「分かりません」というのは、
「自分には関係がありません」という態度である。

今回の事例で言えば、少なくとも、会場の後片付けを任されたという自覚があれば、
「知りません」というのはおかしい。

実際気付きもしなかったとしたら、第三者によって破損が生じたことになり、
それを見過ごしたということになるから、自分の仕事を自分で貶めることになる。

自分を貶めるのでないとしたら、どのような可能性があるだろうか。

処世術としての「知りません」を習慣化している可能性がある。

「関係ありません」という態度をとっておけば、その場をしのぐことはできる。
今回のことも、私が破損したケースを修理し、安全を整えればその場は済んでいくのである。

しかし、それでは、個人レベルで言えば成長が見込めないし、
組織レベルで見れば、同じような事態を防ぐ機会を逃すことになる。

別の部下は、会議の会場準備中、終了前に掲示物の不足を指摘されると、
「分かりません」と言って、そのまま後片付けに入っていた。

別に、持って来るように指示した訳ではない。
しかし、倉庫の場所は決まっているので、探しに行くとか、
場所を訪ねてやってみようと言った発想は浮かばなかったようである。

察しが悪いとか、気が利かないと言う言葉で片付けるのは簡単である。
しかし、恐らくはそれだけではない。

単純に気が回らないのだとしたら、余裕がないのだとも言えるだろうが、恐らくは
「余計なことをしなければ、叱られることはない」と言う姿勢をもっているのだろう。

二人の事例は、どちらも「叱られたくない」
「決まった仕事を、つつがなく済ませたい」という思いが透けて見える。

転任前の部署には、そのような風土があったのだろうか。

「最近の若者はハングリー精神が欠けている」とか「悟り世代」などと言われるが、
その姿勢自体は、欲が無くて慎ましく見える。

それは良いのだが、同時に「失敗を恐れずに、成長を遂げる」と言った主体性も感じられない。

叱られるのを恐れる人は、人目を気にするあまり、
一人で抱え込むか、言われたこと以外はしない(意見を出さない)傾向がみられる。

典型的な失敗例としては、叱られたくないからと、
相談もせず、締め切り間際に起案を提出して、リテイクを食らうというパターンである。

ひどい時には締め切り自体に間に合わない場合もあるが、
言い分としては「時間いっぱいまで精いっぱい頑張った」というところである。

精いっぱい頑張った、その姿勢を責めることはしない。

問題は、あくまで「個人の主観に於いて頑張った」だけであって、
チームとしての共通理解を計っていない事実に気が付いていないことである。

見解の分かれるところだろうが、仕事をする上で大切なのは、
成果を社会に還元することであって、個人が一人で頑張ることではなく、
増して叱られない為でもない。

個人の努力は勿論大切なことではあるが、個人だけで頑張ったところで、
それは只の自己満足である。

本人にとっては最善手でも、相手にとっても最善手だとは限らないのだ。

何故、叱られるのを恐れる人が生まれ、抱え込んだり無関係を決め込んだりするのだろう。

「嘘を吐く子ども」という話がある。

何か叱られるようなことをして、それを親に伝えて叱られた挙句
「正直に話すと叱られる」という学習をした子どもの話である。

親にしてみれば、人から叱られるようなことを二度としないようにと、
我が子を叱るのだが、それが「嘘を吐く子ども」を育ててしまう場合、叱り方に問題がある。

思いがけず叱られて、それを信頼する親に正直に話したらそこでも叱られる。

話せば話す程叱られると学習すれば、
自己防衛の手段として嘘が生まれるのは必然だと言えるだろう。

この子の場合
「叱られて辛い思いをしている渦中に、自分の身に起こったことを、相手を信じて正直に話した」
という事実を認める姿勢を示していれば、嘘を吐く子どもにはならなかっただろう。

この説を踏まえて考えると、叱られないために、無関心を装う。という心情が見えて来る。

企画会議で、反対意見が一切出なかったら、それは成功だと言えるだろうか?

多くの場合、無関心によって、問題が見落とされている可能性がある。

「命令してくれれば働く」という若者が見られるようになったが、
それは無気力なのではなく、無関心であり、
非効率的なルーティンワークに甘んじるということになる。

恐らく、自分のことで精いっぱいであり、刹那的に生きるしかない彼らは既に、
先人たちの築き上げた財産を食い潰し始めている。

これから先を担う人材を育てるつもりがあるのなら、成果や責任を個に求めるのではなく、
次の時代に向かう足掛かりとして、共有することが必要だろう。

お互いに学び合い、課題解決に知恵を出し合う姿勢で、仕事に臨みたいものである。








*  *  *  *  *









The disk case which there should have been in the fixed position was moved to the different place when I visited the meeting room for the last check after finishing the meeting that I planned, and having sent a participant out and was damaged, besides.

Because there was a piece on the floor on the way when I looked well, I visited you to the staff whom I left clearing to whether I moved a disk case indirectly.

At first "I did not seem to know it ," but after checking it for a companion again, and asking it it whether "you did not know what it was though the disk case which I put here moved here", answered it, "it was oneself".

Therefore I answered it, "I might drop it" when I told when, in fact, a case was damaged and picked up this piece here while showing the goods.

When I came across such a scene, how should I arrest you?

I only merely blame a subordinate if I thought "what it is not to understand it though it is one's thing that I did" and am not solved what.

I let you do, "I might drop it" for the person, and, not an important thing, it is thought even if there was not really the actual feeling that I dropped.

I do not intend not to be important to oneself, and the person overlooks it.

It is not to blame the carelessness of the subordinate to have to do this time.
It is that it prevents a piece from being left him unattended in the place where the unspecified number of human being goes in and out of.

The point to lack in crisis control awareness is the place where I want to pursue improvement in when I think about coping to a subordinate based on it.

Because a person is a creature making a mistake, as for letting you damage, there is no help for it.
But it may be said that somebody lacked imagination to step on a piece in the point that did not confirm a floor when "I might break it" when I dropped it.

Furthermore, it is thought because I might not notice damage when I pick up what I dropped if I say even if I lack the concentration.

Because there is individual difference, these do not intend to demand most.
But it is necessary for the point that the opening first "did not know" to pay attention.

It is a manner, "the one which I do not understand" which "I do not know" "is not connected with oneself".

If there is awareness left clearing of at least meeting place to if I say in this example, what "I do not know" is strange.

Actually, I will look down on one's work by oneself because damage would occur because of a third party if I did not notice, and it is expected that I overlooked it.

What kind of possibilities will you have if you do not look down on oneself?

I may become the を custom that "I do not know" as how to get along in life.

, "do not matter"; if take an attitude, can get over the place.
I repair a damaged case, and the place finishes this thing if I fix the security.

However, then I will miss an opportunity to prevent a similar situation if I cannot anticipate growth if I say at a personal level and watch it at an organization level.

The different subordinate said, "I did not know it" during the meeting place preparations for meeting when I had the lack of the notice thing pointed out before the end and just entered clearing.

I did not direct it to bring it particularly.
However, the idea that said to go to look for it, or to visit a place did not seem to float in the place of the warehouse because I was selected.

It is easy to clear it up by the word to tell to be insensitive, or to be slow.
However, probably it is not only it.

Even if it may be said if mind does not turn around simply even if I have no it to spare, I will have posture to say, probably "there is not the thing that I am scolded if I do not do anything unnecessary".

As for the example of two people, thought "to want to finish decided work safely" that "wants to be scolded" neither is transparent.

Would there be such climate in the post before the transfer?

I am said to be "realization generations", "the recent youth lacks hungry mind", but there is not a desire, and posture in itself is modest and is seen.

It is good, but the independence of will that I told "to accomplish growth at the same time without being afraid of failure" is not felt.

A tendency not to do other than having been said (I do not give an opinion) is seen whether the person who is afraid that I am scolded holds it alone because I mind the public eye.

I submit drafting just before the deadline without talking when I do not want to be scolded as a typical failure example and am a pattern to get a re-take.

When I am terrible, I may not be in time for deadline in itself, but am the place "that did its best to a lot of time for say as hard as possible".

I do not blame the attitude that I tried hard as hard as possible.

The problem "did its best in personal subjectivity" to the last and is not to notice the fact that does not plan the common understanding as the team.

It is social, to return result that is important even if it is the place where the opinion is divided in working, and this is not because an individual is alone, and it increases not what I try hard and is not scolded.

It is the thing that is important not to mention a personal effort, but, in the place where I did my best only in individuals, it is mere self-satisfaction.

Even the best hand may not be the best hand for a partner for the person either.

The person who is afraid that I am scolded why is born and I hold it and will pretend to be having nothing to do with.

There is the story called "a child telling a lie".

I am scolded what it is and am the story of the child who learned it "who is scolded after telling it to a parent and having been scolded when I speak it honestly".

I scold my child when I never do that I am scolded by a person as for a parent, but have a problem with how to scold when it brings up "a child vomiting a lie".

I am scolded and am scolded there unexpectedly if I talk to a parent trusting it honestly.

It may be said that it is necessity that a lie is born as means of the self-defense if I learn it when scolded so as to talk if I talk.

In the case of this child
It would not be to the child who vomited a lie if I showed posture to recognize the fact "that I believed a partner, and talked about having been generated in one's body for the maelstrom that I was scolded and felt hard about honestly".

Because I am not scolded when I think based on this opinion, I feign indifference. I can see feelings.

If dissenting opinion does not appear at all in a planning meeting, may it be said that it is success?

In many cases, a problem may be overlooked by indifference.

A youth "to work if I order" came to be seen, but it is not feeble and is indifferent and is to content itself with inefficient routine work.

Probably it is all one could do, and it is momentary, and they who cannot but live begin to run through the property which ancient people already built about oneself.

It will be necessary from now on to share as a clue to leave not what demand result and responsibility from a unit if I intend to bring up a talented person carrying a point in the next times.

I learn each other and, with posture to give wisdom for problem solution, want to go to the work.

6月『ロストマージン/Lost margin』

現在の日本に於いて、幼稚園や保育所の利用は、当たり前のように考えられている。

待機児童への対応が、社会問題となっているのは、
就園の希望に対し、受け入れ先が不足している為である。

一刻も早い対応が望まれるところではあるが、現在、就園は義務ではない。

とあるアンケートによれば、就労男性の考える専業主婦の時給は、0円だという。
保育士の給料が、業務内容に対して低すぎると問題になったが、
子育てを家事の一環だと考えているならば、給料を出すだけましだと言うのが本音だろう。

現在では想像さえ難しいが、少し歴史を紐解けば、
母親が子どもを育てるのは当たり前であり、
他人に預けること自体、恥と考えられた時代があった。

子どもは家庭で育てるのが当たり前であり、他所に預けて就労するとしたら、
経済的な困窮など、切羽詰まった事情があると見なされた時代である。

経済的な困窮と言えば、現在の日本にも通じるところがある。


待機児童の存在が問題だとされるのは、
子育てを含めた生活そのものが困窮しており、保護者が就労を希望している為である。
子育ての為に給料が必要であり、その為には子どもを預けなければならない。

ところで、就園は義務ではないと最初に書いた。
義務教育は無償だが、就園は有料である。

受け入れ先の不足は不本意な理由だが、経済的な理由で、
就園そのものを考えない家庭も少なからず存在する。

時代錯誤な発言が許されるならば、
迷惑施設とさえ言われる幼稚園や保育所から、
子どもを家庭に返し、家庭で子育てをさせてはどうだろう。

日本に於ける幼稚園や保育所の歴史は、
家庭で育てた歴史に比べれば、随分と短いのだ。

しかしながら、これは現実的ではない。

何故なら、家庭の構成が、当時とは大きく異なっているからだ。

核家族が当たり前になり、加えて長時間労働で、
働き手たる保護者は、殆ど家に居ない。

子育てとは、次世代を育むことである。

世代と言うのは、個人では実現しない。

家庭での子育てが、次世代を育むことができたのは、
それが複数世代によって構成されていたからである。

血縁上の家族だけでなく、地域のコミュニティも含めて家族であり、
子ども達はそこで育てられた。

集団生活の中で暮らした子どもは、周囲の人間とその関わりの中から、
社会性を身に付けていったのである。

翻って、昨今の子育てはどうだろう。

社会性を身に付けるよりも、
個人としての力量を高めることに重きが置かれているようである。

自立を促せば、手の掛からない子どもに育ちはしても、
人の中で生きていく人間にはなりにくい。

個人主義は決して否定されるものではないが、
主義を通すにしても、人は人の中で暮らす生き物なのである。

優れた能力をもっていても、理解されなければ活かされることは無い。
良き理解者を得るにしても、そこには他者と関係を築く力が必要になる。

自分自身を含め、世の中には色々な考え方をもった人がいると知ることが、
他者と関係を築く第一歩である。

他者を知らないスタンドプレーは、只のスタンドプレーに過ぎず、
誰かに発見されるのを待つだけが、
他者を意識してのスタンドプレーは、関係性を広げていき、
緩やかなチームプレイの様相を呈する。

緩やかなチームプレイは、最近は嫌われる傾向にある。
何らかの役割が常に求められ、フリーという立場があまり重んじられない。

責任の所在を明らかにするという意味では有効だが、
替えが効かないと言う弱点にもなる。

寿退社が推奨されたのは、
そこで完全に職員を入れ替え、責任を明確にできるからである。
また、育児休暇後に職場に復帰した場合、
その期間分の給与を上乗せすることになっているが、
子育て自体に価値を見出していないので、
辞めてもらった方が、企業としては都合が良いのである。

長い目で見れば、次世代を育む子育てこそ至高なのだが、
企業としては目先の利益が重要であり、新人研修さえ軽んじる昨今である。
技術者が育たないのも、ここに理由がある。

現在の日本は、利益の為に効率を追い求め、余裕を設けない方向に舵を切った。

世界的に有名なハンバーガーショップが撤退を始めている直接の理由は、
売り上げが落ちている為であるが、そうなった一番の理由は、
作業の効率化のみを進め、顧客のリサーチを怠った為である。

事務的な手続きを簡略化するのは効率化の一つだが、
長期的な視野で見たとき、どのようなことを効率化と呼ぶのだろう。

人間は思考する生き物であり、思考するには、脳への栄養補給が欠かせない。
従って、食事を抜いて仕事をするのは効率化とは呼べない。
優れたビジネスマンは、個食を好まない。
人間は対話する生き物だからである。
アイデアや人脈は、思考と会話の中で作り出される。

デジタル機器の進化から、電話は携帯可能な情報端末となった。
優れた道具を手に入れた人類は、しかし情報端末として有効活用するよりも、
暇つぶしの道具として活用しているようである。

それ自体は良いのだが、誰かと会話するよりも、
一人で動画を眺めている時間が長いのは頂けない。

特に、思考する習慣が形成される前に、
一方的に与えられる視覚聴覚刺激に反応するだけの生活は、人間性を失わせる。

テレビ育児が問題となったのは、情報が一方的に与えられるばかりで、
関係を築く力にならないからである。

情報に対して条件反射するようになれば、プロパガンダに簡単に流されてしまう。

これは、生活に対する漠然とした不満を抱える中、
原因を考えるのではなく、時の首相に一任して、
大量虐殺を招いた70年前のとある国の国民の様子に酷似している。

「人は放っておくと楽な方に流れる」と言うのは正確ではない。

重要なのは生命維持であり、必要ない行動を取らなくなるだけのことである。
必要な行動は、その個々の価値観に左右されるものであり、
思考する習慣がなければ、風土に飲まれることになる。

効率化を追い求め、マージンを設けなくなった結果、
会社と自宅を往復する人が増えた。

それは暮らす社会の縮小を招き、井の中の蛙となる危険性を高めた。

異なる価値観に触れなければ、自分の姿を見直すことはできない。

3歳児を本気で殴り殺す成人男性を、異常だと言うのは簡単だが、
そういう価値観で生きて来た彼にとって、
にらまれたら殴り返すのは正当な行為であり、
恐らくは事情聴取で、堂々と理由を答えたのである。

一つの企業だけを知っていて、それが当たり前だと思っていれば、
労働基準法に照らし合わせて異常な就労実態があっても、
おかしいとは思わないだろう。

優れた情報端末を手にして、情報交流が容易になったため、
問題の摘発は、以前よりは容易になった。

しかしながら、他を知らなければ、問題に気付くことはできない。

自分の中の常識だけが常識だと信じ、別の価値観を認められないまま、
気が付けば加害者になっているのである。

加害者を生む構造が、ロストマージンを果たした、現在の日本の実態なのである。








*  *  *  *  *








In current Japan, the use of a kindergarten and the nursery school is thought about routinely.
The reason why the correspondence to a waiting-list child becomes the social problem is that I lack acceptance for hope of entering a kindergarten.
It is the place where early correspondence is expected in a moment, but entering a kindergarten is not duty now.
According to the certain questionnaire, it is said that the hourly wage of the full-time homemaker whom the working man thinks about is 0 yen.
When the salary of the childcare person is too low for duties contents, it became the problem, but it will be the true intention that say a salary that starting it is better if it thinks child care to be a part of the housework.
Even imagination was difficult, but it was natural for mother to bring up a child, and there were, shame to leave with another person and the times when it was thought now if I read some history.
If it is natural for the child to bring you up at home and I leave it with the other place and set to work, it is the times when circumstances driven to the corner including the economical poverty were considered that there is it.
Speaking of the economical poverty, there is a place abreast of current Japan. Life itself including child care is poor, and the reason why it is said that the existence of the waiting-list child is a problem is that a protector hopes for working.
A salary is necessary and must leave a child with that purpose for child care.
By the way, I wrote that entering a kindergarten was not duty first.
The compulsory education is gratuitous, but entering a kindergarten is charged.
The lack of the acceptance is an unwilling reason, but the home that does not think about entering a kindergarten itself for an economic reason not a little exists.
If the remark that is anachronism is permitted, from a kindergarten and a nursery school said to be even annoying facilities, I return a child to the home, and how about when I let you do child care at home.
The history of a kindergarten and the nursery school in Japan is very in comparison with the history that I brought up at home short.
However, this is not realistic.
This is because domestic constitution is greatly different from those days.
A nuclear family becomes natural, and, in addition, it is long working hours, and there is hardly the protector as the real worker in a house.
Child care is to bring up the next generation. It is not realized in the individuals to say a generation.
That child care at the home was able to bring up the next generation is that it was constructed by plural generations. It was a family, and, as well as the family on the blood relative, children were brought up there including local community.
The child who lived in communal living wore social nature from the relation with neighboring human beings. It flutters, and how is the child care of these days.
Weight seems to be put in raising the ability as the individual than I wear social nature. It is hard to be to a human being living among people even if I do being brought up to a child not to take of the hand if it promotes independence.
The individualism is never a denied thing, but a person is a creature to spend among people even if I maintain principles. It is not kept alive if not understood even if I have superior ability.
Power to build the relations with others is necessary there even if I get a good understanding person. Including oneself, it is the first step that it builds the relations with others to know when a person is that I had various ways of thinking in one of the world.
Grandstand play not to know the others is only mere grandstand play, and the grandstand play with waiting being conscious of others in what is discovered in somebody opens a relationship and presents an aspect of gentle team play.
The slow team play tends to be avoided recently.
Some kind of roles are always demanded, and a viewpoint of the free is not respected very much.
It is effective in the meaning to clarify who is responsible, but becomes the weak point to say that a substitute does not work.
It completely replaces the staff there that Kotobuki leaving the office was recommended, and this is because it can make responsibility clear. In addition, when I return to the workplace after parental leave, I am to add the salary for the period, but the which had you leave it is convenient for child care in itself for a company because I do not find value.
Child care to bring up the next generation is highest point if I take a long view, but profit at hand for a company is important and is these days to make light of even the new face training.
There is a reason why an engineer is not brought up here.
Current Japan pursued efficiency for profit and cut a rudder in the direction not to establish the room.
The direct reason why a world-famous hamburger shop begins withdrawal is because sales decline, but the first reason that became so go ahead through only the efficiency of the work, and this is because it neglected the research of the customer. It is one of the efficiency to simplify a businesslike procedure, but will call what kind of thing with efficiency when I looked in a long-term field of vision.
The supplementation to brain is indispensable that a human being is a considering creature and considers.
Therefore, I cannot call that I pull a meal and work with the efficiency.
The superior businessman does not like having a meal individually.
This is because a human being is a talking creature.
An idea and the acquaintances are created in a thought and a conversation.
From the evolution of the digital gadget, the telephone became the information terminal which I could carry.
It seems to inflect as a tool of the time killing than it inflects effectively as the human who obtained a superior tool but an information terminal.
Itself is good, but I cannot accept that it has a long time when I am alone and look at an animation than I talk either.
Particularly, the life that only reacts to sight hearing stimulation to be given one-sidedly makes you lose human nature before a custom to consider is formed. Information is just given one-sidedly, and it builds the relations that TV child care became the problem; is because do not help it. It is easily spread in the propaganda if I come to make conditioned response for information.
I do not think about a cause while I have vague dissatisfaction for the life and entrust this to the prime minister at time and closely resemble one of 70 years ago when I invited genocide and the state of the nation of the country which there is.
It is not correct to say, "I drift to the comfortable one when the person leaves it". It is life support to be important and does not take the action that is not necessary.
I am influenced by the individual sense of values, and the necessary action will be swallowed up by the climate without a custom to consider.
As a result of not having made a margin in pursuit of efficiency, the people who made a round trip to a company and the home increased.
It caused social reduction to live and raised the risk to become a narrow-minded person.
I cannot review one's figure if I do not mention different sense of values.
It was easy to tell you to be abnormal in the adult males who beat a 3 years old child to death seriously, but it was a fair act that hit back if glared for him who lived for such a sense of values and probably, by an interview, it was dignified and answered it for a reason.
Even if there is the abnormal working actual situation in light of the Labor Standards Law if I know only one company and think that it is natural, I will not think that it is strange.
Because I had a superior information terminal in my hand, and information interchange became easy, the disclosure of the problem became easy than before.
However, I cannot notice a problem if I do not know the others.
I believe that only common sense in oneself is common sense, and it is to an assailant if I notice it without different sense of values being accepted.
Structure to produce an assailant is the current Japanese actual situation that served as a lost margin.

5月『子どもの声/Voice of the child』

雑踏の中でも会話が成立するのは、
脳が音声を取捨選択し、不要な情報を切り捨て、整理しているためである。

情報を整理する能力には個人差があり、
興味のある音しか拾わない人から、あらゆる音を区別なく拾う人まである。

また、拾った情報の一つ一つに対応できる人がある一方で、
情報の波に飲まれて、収拾がつかなくなる人もいる。

およそ健常者と言われる人々は、情報を波に例えるなら、
適宜合間を縫って、必要なだけ拾っては応じていると言えるだろう。
彼らにとって気にならない音というのは、興味の対象にないものであり、
生活に支障を来すことはまずないと考えられる。

先日、保育所の子どもの声を巡って訴訟が起きた。

種類にもよるが、いわゆる特別な支援を必要とする人の施設を建てようとすると、
決まって反対運動が起きる日本と言う国だが、
昨今は、保育所や幼稚園も迷惑施設として位置づけられるようになっている。

アパートの隣人が、子どもの声がうるさいと、
若い保護者を囲い込んでいく風潮が既に起こっていたが、
養育施設そのものも、騒音源として認識されているようである。

様々な就労形態があるので、
昼間に子どもの声が気になって眠れないという人も居るだろうし、
そもそも、小さな体から発せられる高音域という、
子どもの声に耐性が無い人も居ることだろう。

子どもが好きで、
子どもは騒がしいものだと考えている人には理解されないだろうが、
どこまで許容できるかどうかは、人それぞれなのである。

しかしながら、健常者は音声を取捨選択できる筈である。

街を見回してみれば、子どもの声だけでなく、
航空機に電車、ひっきりなしに走る自動車やオートバイ、
何より、近隣に住まう人々の雑踏などなど、身の回りには音が溢れている。
工場からは機械の音が聞こえてくる。

もちろん、音そのものの大きさが、
心身に不調をきたすものであれば、何らかの対策が必要である。
防音設備の建設は、音の発生を前提とする施設であれば、義務だとさえ言えるだろう。
そうした対応がなされた上で、人々は雑踏の中に暮らしている。

ではなぜ、子どもの声だけが騒音として取り上げられるのだろうか。

子どもの声の甲高さは、仕事柄良く知っている。
もしも夜中中続くようであれば、心身に不調をきたすことだろう。

しかしながら、延長保育を実施している保育所でも、
深夜まで預かることは、子どもの発達が考慮される点からも、まずない。

今回の訴訟は、昼間の音を取り上げているのが不思議な点である。
なぜ、昼間の雑踏は平気で、子どもの声が訴訟の対象になるのだろうか?

子どもの声を嫌う例として、高齢単身者が挙げられる。
既に子育てを終えた、或いは家族を持たない方からのクレームがある。
直接には、うるさくて昼寝ができないといった類のものである。
同じような理由で、夜勤のある単身者がそれに続く。

強引であることを承知で共通項を挙げるなら、どちらも子どもと縁がない人々である。

着の身着のまま、単身で、密林に放置されたとしよう。
恐らく助かろうとして、周りの音に敏感になるに違いない。
良く分からない獣の音は、恐怖の対象になると考えられる。

何故怖いと感じるのか。
それは相手のことをよく知らないからである。

蜂に刺される人の多くは、無暗に怖がって騒ぎ、相手を刺激するからであり、
特徴を知っている人は、騒がないので刺されない。

子どもはある程度騒がしいものだと思っている私にとって、
子どもの声は騒音にはならないが、
そうでない人にとっては、騒音となりえるのである。
この点のみに対応するのであれば、防音壁の設置で十分である。

実のところ、問題の本質はそこではない。

全くの独断と偏見で言わせてもらうなら、
子どもへのクレームは、子どもの居ない単身者のコンプレックスの現れなのである。

先日、3歳児に睨まれたと言って殴り殺した成人男性がニュースになったが、
大の大人が子ども相手に本気になって殴りかかる心情とはどんなものだろう。

これは、外見こそ成人だが、精神的な成熟が間に合っておらず、
睨まれたら
やり返さないと自分の身が危ないという価値観のまま生きていたのだと考えられる。

叩かれたから叩き返したというのは、正に子どもの喧嘩になるわけだが、
叩くという行為に含まれた心情を言語化して口喧嘩になり、
その先に議論や対話が待っているのが、本来あるべき成長である。

なぜそこに行きつかないのかと言えば、結果を急ぐ競争社会の賜物である、
本来の教育とは違う、受験の為の勉強と言うシステムが浸透しているためである。

これは人を利己主義に陥らせ、狭量な世界観で自己完結する人間を増やす。

次に考える点として、雇用と家族形態の変化が挙げられる。
非婚晩婚と言われるようになったが、
原因としては、経済的な制約と、結婚のリスクが挙げられる。

子どもが生まれると教育費用が掛かるという、学歴社会らしい笑い話があったが、
それどころか共働きでも苦しいところに、待機児童の問題が上がっている。

子どもを育てたいのに、お金が必要なので働きたい。
だから保育所に預けたいのに預ける場所が無いという状態である。

保育所の存在が、働く保護者を守る一方で、子育てを完全に依存し、
親子関係を築けない保護者を生み出していることを知っている身としては、
複雑な思いが去来するが、何にせよ、経済的な制約がある以上、
働くために子どもを預けなければならない。

ここに立ちふさがるのが、子どもをもたない単身者である。
曰く、育てるための時間も金も用意できないことが分かっているのに、
子どもを作るなんてどうかしている、というのが、彼らの本音なのである。

子どもの存在を害悪と見なしているのだから、
騒音扱いするのは当然であり、施設の建設には反対するのである。

どうしてこのような人々が、社会の一定数を担うようになってしまったのか。

これは、長い歴史を紡ぐ、
社会の一員であるという自覚の欠如にあると考えられる。

もちろん、彼らをそのような思想に追い込んだ社会の仕組みも原因の一つであるが、
自分のことしか考えられないような状態で生きることが、
果たして安心できる社会だと言えるだろうか。

コンビニエンスストアができる前の時代、
良いか悪いかは別にして、近所の人も家族の様に捉える風潮があった。

いわゆる「たかり」という暮らしをしている人が一定数おり、
それが良いかどうかは分からないが、少なくとも、
お金が無い時はお互いさまという考え方で成り立っている部分があった。

経済政策は国の責任なので、いつまでも国民の良心に甘えていてもらっては困るが、
利己主義や自己責任といった冷たい関係性ではなかったと言えるだろう。

子どもの声を受け止められるのは、子どもの目線に向き合える大人だけである。

将来というものに絶望しないで済むように、今に向き合って暮らしたいものである。







*  *  *  *  *









Brain chooses a sound,
and it cuts off unnecessary information that a conversation is established among crowds,
and this is because it arranges it.
There is individual difference in ability to pay off information, and there is only a sound with the interest to a person picking up every sound without distinction from the person who does not pick it up. In addition,
I am swallowed up by a wave of the information while there is the person who can be equivalent to one one of the information that I picked up, and there is the person becoming out of control.
The people who are quite said to be a physically unimpaired person sew an interval appropriately if I compare information to a wave,
and it may be said that I accept it when it is necessary and picks it up.
An object of the interest does not have the sound not to be worried about for them,
and it is thought that I will never affect life.
Suit happened over the voice of the child of the nursery school the other day.
It depends on a kind, but it is Japan where an opposition movement gets up regularly and a saying country,
but a nursery school and the kindergarten come to be placed as nuisance facilities in these days when I am going to build the facilities of a person needing so-called special support. If the voice of the child is noisy the neighbor of the apartment, I have already had the trend that I keep a young protector, and is crowded, but the nurture facilities itself seems to be recognized as a noise source.
Because there are various working forms,
there will be the person to be worried about the voice of the child in the day,
and not to be able to sleep, and in the first place the person that there is not tolerance for the voice of the child called upper register emitted from a small body will be to be. It is person each where you can permit it to even if children like it, and the child is not understood by a person thinking that it is noisy.
However, the physically unimpaired person should be able to choose a sound.
As well as the voice of the child, sounds overflow in the appearance such as a train,
a car and a motorcycle,
the crowd of people living in the neighborhood above all running incessantly to a plane if they look around in a town. I hear the sound of the machine from a factory.
Of course it is necessary some kind of measures if size of the sound itself causes disorder in mind and body.
If the construction of soundproofing facilities is facilities premising the outbreak of the sound, it may be said that it is duty.
The people live in a crowd after such correspondence was accomplished.
Then why will only the voice of the child be taken up as the noise?
Because of the profession,
I know the shrillness of the voice of the child well. It will be to present with disorder in mind and body if I seem to follow during midnight.
However, there is hardly any that I keep it in the nursery school carrying out extended childcare until the middle of the night from the point where the development of the child is considered. It is a mysterious point that this suit takes up a daytime sound.
The daytime crowd is okay, and why will the voice of the child become a target of the suit?
Examples in disfavor with the voice of the child include old live-alone.
There is the objection from the person who I finished child care or does not have a family anymore. It is the thing of the kind direct, to be noisy, and not to be able to take a nap.
For a similar reason, it is followed by the live-alone with the night duty.
It is people doing not have much child both if I give a common denominator by agreement in a forcible thing.
It will be said that I was left unattended alone with nothing but the clothes on one's back in a dense forest.
Probably it must become sensitive to the sound of the circumference to be saved. It is thought that the sound of the beast not to understand well becomes a target of the fear.
Why do you feel that you are scared? It is because I do not know partners well.
I am afraid, and most of people who are bitten by a bee are excited about recklessness,
and this is because I stimulate a partner, and the person knowing the characteristic is not stabbed because I do not make noise.
For me who think that a child is noisy to some extent, the voice of the child does not become the noise, but, for the person who is not so, it can become the noise.
The setting of the soundproofing wall is enough if it supports only this point.
Actually, the essence of the problem is not there.
The objection to a child is an outcome of the inferiority complex of the live-alone without the children if I say real dogmatism for prejudice.
The adult male whom I say that I was glared by a 3 years old child and beat to death became the news, but a great adult becomes serious for a child partner, and the feelings to strike will be what the other day.
Appearance is an adult, but mental maturity is not enough, and, as for this, it is thought that one's body lived as sense of values to be dangerous when I do not revenge you if glared.
Having hit you back because was swatted right of the child is quarrelled, but it is the growth that there should be originally that make feelings included in an act swatting a language and is quarrelled, and an argument and talks are waiting over there.
This is because study for examination different from the original education that is the gift of the rat race hurrying a result why you do not arrive at there and a saying system penetrate.
This lets a person fall into egoism and increases self-concluding human beings with a narrow-minded view of the world.
Points to think about next include the employment and the change that are in a family form. I came to be said to be a discoverture late marriage, but causes include a risk of the economical limitation and marriage.
Laughter like the educational background society where it costs an education expense for when a child is born had to talk, but, on the contrary, the problem of the waiting-list child goes up even the working together to the painful place.
Though I want to bring up a child, I want to work because money is necessary.
Therefore a place to leave it with though I want to leave it with a nursery school is in a state that there is not it.
I completely depend for child care while the existence of the nursery school protects a working protector, and the thought that is complicated for the body knowing that I bring about the protector who cannot build the parenthood comes and goes, but must leave a child since what I would like, and there is economical limitation to work.
It is the live-alone who does not have a child to block here. It is their true intention that do something though I know what neither a reason, the time to bring you up nor the money can prepare for to make a child. Because I consider the existence of the child to be evil, it is natural to treat the noise and objects to the construction of facilities.
Why did such people come to take the number of the social uniformity?
It is thought that there is this for lack of the awareness to be a social member spinning the long history.
Of course the social device which drove them into such a thought is one of the causes, but it can be relieved as expected to live in the state that it is not thought in one's this year; may it be said that social?
In the times before a convenience store was done, there was the trend that the neighboring person caught like a family whether it was good, or it was bad.
I did not know it whether the person who lived a life called so-called "racketeering" had good number of the uniformity cage, it, but there was the part which consisted of the way of thinking of the state each other when there was not at least money.
Because the economic policy is responsibility of the countries, I am troubled when I have you depend on the conscience of the nation forever, but it may be said that it was not the cold relationship such as egoism and the self-responsibility.
It is only adult who can face each other in the glance of the child that the voice of the child is taken.
I want to live facing now to finish it without despairing of a thing in the future.
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